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つくしのつれづれノート


ゼロ戦二欠陥アリ~「風立ちぬ」ミッシングリンク~

只今大ヒット中のジブリアニメ「風立ちぬ」。有名な軍用機の航空技師・堀越二郎の半生を下敷きにした本作でしたが、クライマックスの九試単戦の試験飛行(1935)からいきなり10年後の1945年の敗戦に話がとんで、ゴリ押し的にキャッチフレーズの「生きねば」に持っていったのが非常に不満に思いました。
その為、終盤の
「10年間(航空設計に)力を尽くしたものの最後はズタズタでした。」
という二郎のセリフがの意味が判りくかった人が多かったのではないかと思います。

そこで今日は設計技師・堀越二郎の代名詞であるゼロ戦こと零式艦上戦闘機を主眼にして、二郎のセリフに込められた意味について突き詰めていきたいと思います。
作中で描かれなかった空白の10年の間にいったい何があったというのか…?


ゼロ戦の開発が始まったのは1937年。「風立ちぬ」のクライマックスの九試単座戦闘機(翌年九六式艦上戦闘機として海軍に配備)の初飛行の約2年後になります。
設計に携わったのは三菱重工の若手設計チーム。設計主任は九試単戦の堀越二郎技師。
日本の航空技術を一気に世界水準に引き上げた九試単戦の例を背景にしてたのか、海軍は新戦闘機開発に際して運動力・航続力・スピード全てを最高レベルという途方もなく過大要求を突き付けました。当時そのような全てを兼ね備えた戦闘機は世界のどこにもありません。
そのような無茶な要求に対し堀越・曽根は「性能の優先順位をつけてほしい」と要求したのですが、海軍では意見がまとまらず却下。過大な要求のままゼロ戦の開発が始まります。

九試単戦でやっと日本の航空技術は世界レベルに達したものの、当時の国産エンジンは出力940馬力と貧弱なものでした。(「風立ちぬ」でも次郎が国産エンジンに対して「武装を外せば何とかなるんだが…」というジョークが登場する。)
そこで性能要求達成のために堀越達は徹底的な軽量化を施したのです。
その結果1939年にゼロ戦試作一号機が完成。徹底的な軽量化の結果、海軍の性能要求を全てクリアするという快挙を成し遂げました。しかし…
テスト飛行中に重大な空中分解事故を起こしてしまいます。
原因は過度な軽量化による強度不足。
その為に最高速度で急降下出来ないという弱点が露わになります。
設計側はゼロ戦の強度の見直しを要求しますが海軍は却下。一部補強したのみの問題未解決のままゼロ戦を正式採用してしまったのです。すでに日中戦争が泥沼化しており、中国内陸都市への長距離爆撃機を護衛できる戦闘機が急務だったのです。

かくして1940年ゼロ戦実戦配備。デビュー戦で襲来した中国軍機をわずか10分で全て屠ってしまうという大戦果を挙げます。その成功に酔いしれて海軍はゼロ戦の本質的欠陥を無視し続けることになります。

1941年12月8日、太平洋戦争勃発。
その火蓋を切った真珠湾攻撃によってアメリカ太平洋艦隊は壊滅します。ゼロ戦はここでもアメリカ軍機を圧倒して大戦果を挙げます。戦局はゼロ戦などの航空戦力を背景にあっという間に西太平洋全域が日本の勢力下になります。

1942年春、海軍はゼロ戦の改良に着手します。1100馬力の新エンジンを搭載、主翼端を切って四角くすることを指示。速力・高度に加え量産性をも向上させたいという欲張りな考えから来るものでした。
こうして完成したゼロ戦二号機(ゼロ戦三二型)は海軍にとってゼロ戦の決定版になるはずでした…
1942年8月ガダルカナル島を巡り日米が激しい戦闘を展開。直ちに最前線のラバウル基地のゼロ戦が支援の為出撃します。ところが…
ラバウルのゼロ戦の4割を占める二号ゼロ戦が、新エンジンによる燃費悪化・四角い主翼による空気抵抗で航続力がダウンしまい、ラバウル~ガダルカナル間を往復できなかったのです。結局少ない一号ゼロ戦で戦ってラバウルのゼロ戦は消耗していきました。
実は二号ゼロ戦への改良に設計側は問題を予見し反対してたのですが、海軍はそれを無視して量産を強行したのです。
ガダルカナル島の戦いは激戦の末、日本軍の惨敗。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争の転換点となります。

二号ゼロ戦失敗を受けて海軍は主翼を元に戻し、翼の中に燃料タンクを増設する応急処置にでます。しかし設計側は撃墜増大の危険性を訴えて反対するも海軍は却下。
これが強度不足と共にゼロ戦の致命的弱点となります。
そして海軍はその責任を全くとらず、欠陥を放置し続けたのです。

そんな中、ゼロ戦に手を焼いていた米軍がついに一機の墜落ゼロ戦をほぼ無傷の状態で捕獲。徹底的に調べ上げられた結果、
海軍がひた隠しにしたゼロ戦の致命的弱点が白日の下にさらされたのです。

米軍はゼロ戦との格闘戦を回避の対抗策に出ました。弱点の急降下されたらゼロ戦は追い付けないのです。おまけに増大した無防備な翼タンクを狙われる羽目に…
同時に米軍は新型機を開発。2000馬力という強大なエンジンを搭載
し、強固な防弾機能の戦闘機グラマンF6Fヘルキャットの登場でゼロ戦は一方的に撃墜されるようになります。(しかもゼロ戦が攻撃しても防弾機能で中々撃墜しない。)
設計側やパイロットは防弾対策を必死に求めましたが海軍は無視。
ある会議で「大和魂が足りない」の一言で防弾対策を一蹴してしまったという話があります。(この発言をした源田実海軍中佐は戦後空自のトップ航空幕僚長・自民党所属の国会議員となった。このような男が戦後も日本の中枢に居座ったことは本当に恐ろしい。)


1944年6月、マリアナ沖海戦
戦局悪化していた日本は挽回の為に海軍戦力を結集し海戦に臨みます。海軍航空部隊は空母9隻・艦載機439機、内ゼロ戦は243機。しかし米軍は空母15隻・艦載機896機、内ヘルキャットが472機と量質共に日本を圧倒していたのです。
結果、日本海軍は惨敗。艦載機400機以上を喪失し、ゼロ戦はその約9割が無防備の防弾タンクを狙われて撃墜されてしまいました。
日本海軍の航空部隊はここに事実上壊滅したのです。

追い詰められた日本は特攻作戦を始めます。特攻で沢山使われたのがゼロ戦でした。
設計技師たちにとって同世代の人間が自ら作ったゼロ戦で必死確実の特攻に出ることは、非常にショッキングだったそうです。特攻は終戦まで続けられ特攻で散った数は実に2400以上…
制空権は米軍に完全に取られB29により本土空襲が激化。
1945年の今日8月15日日本は降伏します。
占領軍によりゼロ戦をはじめとする残った軍用機は全て破壊され、日本の航空技術研究を禁止されてしまいます。

「風立ちぬ」終盤の「力を尽くしたものの最後はズタズタでした。」のセリフは上記の苦悩を表現しものと言えます。できればのそこのところもしっかり描いてくれればラストはもっと印象的なものになったはずです。

ゼロ戦の総生産数10423機は日本航空史上最大規模になります。しかし誕生の瞬間から欠陥を抱え、問題を放置したうえに改良失敗の連続で急速に失墜していったのです。ゼロ戦の悲劇は設計側の技術不足というよりも企画者海軍の体質によるところが大きいです。
最初の大成功に浮かれ根本的問題を無視し、無茶な要求で失敗の連続・拡大・再生産による破滅は戦前日本のどのジャンルで見られ、ゼロ戦はその象徴とも言えるかもしれません。



では堀越二郎は戦後どうなったのか…?
それについては
「翼はよみがえった ~続「風立ちぬ」~」という記事で説明します。
近日公開!!

アバター
2013/08/20 21:05
たまねぎ様へ…終盤登場したゼロ戦が「紅の豚」のポルコの回想にあった空にある飛行機の墓場へ飛んでいったのがとても印象的でした。
続編の方の情報ソースもすでに揃えていますので明日あたり記事にしようと思います。(ドキュメンタリーの金字塔「プロジェクトX」 これもNHKの番組になります。)
アバター
2013/08/20 20:29
おぉ・・・詳しい解説ありがとうございます。勉強になりました。
「でも(ゼロ戦は)一機も戻って来なかった」という台詞もありましたよね。
こういうことなんですね。
続編も楽しみにしてます!
アバター
2013/08/15 13:40
本ブログはゼロ戦設計副主任・曽根嘉年が残した資料(通称曽根ノート)を元にしたNHKドキュメンタリー「零戦二欠陥アリ」を下敷きにしています。ゼロ戦を通じて破滅的な戦争をやった戦前日本の体質が見えてくる内容となっております。




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