Nicotto Town


つくしのつれづれノート


小野田少尉逝く

終戦を知らずに約29年もの間フィリピンで潜伏ゲリラ活動を続けたことで有名な旧陸軍少尉の小野田寛郎さんが91歳で亡くなりました。
小野田少尉といえば横井庄一さん(グアム島で潜伏。よっこい庄一のネタはおなじみですよねwww)と同じく終戦後も長くジャングルで潜伏してしていた日本兵の代名詞として有名だと思います。



戦争が終わった1945年当時小野田さんは23歳。
予備少尉としてフィリピンのルパング島の守備についていたのですが、この島には終戦の知らせが来なかったため、小野田少尉含め四人の残留兵が残留する事態になったそうです。
日本ではこの残留日本兵たちは戦死扱いされていたのですが、うち一人が五年後の1950年にアメリカ軍に投降して帰国を果たしたことで、残りの3人の日本兵の生存が知られることになり、度々捜索隊がルパング島のジャングルに訪れたそうです。
(なお終戦後、日本に帰らずインドネシアやベトナムの独立戦争へ身を投じた日本兵もたくさんいました。それぞれ内地の家族が全滅していたり、戦争犯罪人にされるのを恐れたりと様々な理由を抱えていたそうです。)

実は小野田少尉はグアムで潜伏していた横井庄一さんと違って、潜伏先で手に入れたトランジスタラジオ(改造してたんぱ受信機に)や捜索隊が残してきた新聞雑誌などを通じて戦後の日本の情勢について精通していたそうです。しかし東京オリンピックや新幹線開通と大繁栄している戦後日本の様子がとても敗戦がを信じておらず、終戦から29年もの間サバイバル生活をしながら駐留のアメリカ兵・地元警察を相手にゲリラ戦を展開したのです。(トランジスタで日本の競馬中継を聞いて仲間と賭け事をするのが娯楽だったらしい。

ことが大きく動いたのは1974年。ゲリラ戦の結果最後まで生き残った仲間が戦死したことで孤独感と長年の疲労に苦しむことになり、交渉の末最後は元直属の上官の命令によって投降し、帰国に至ります。
今日のニュースで帰国直後の小野田さんの映像を見ましたが、戦後日本人の顔つきではなく戦時中の記録映像の精悍な日本兵そのものだったので大変驚きました。
なお小野田少尉は仲間と共に展開したゲリラ戦でアメリカ兵・現地警察官を30人以上殺傷しており、現地法律で裁かれる可能性もあったのですが、外務省の尽力で釈放となったとのこと。(小野田少尉自身は投降後自決・処刑を覚悟してたそうです。)

ただグアムの横井さんとは違い、出征前とまるで様変わりした日本の風土になじめなかったそうです
まさに現代の浦島太郎ですね。
翌年小野田さんはブラジルに移住して牧場経営を始めます。
しかし1980年の金属バット両親殺害事件をはじめとした未成年の凶悪事件の増加を憂えて日本に帰国し、講演会やアウトドアを通した教育活動を続けたそうです。





小野田さんの訃報は1945年の終戦の記憶がどんどん遠い記憶の彼方へ遠ざかっているのを実感させられます。
もうすでに当時出征した元日本兵の方たちも恒例で亡くなって大分少なくなっており、大分前からNHKで戦時中の記憶の風化を防ぐために当事者たちの戦争体験談記録の収集プロジェクトを続けていると聞きます。

現在憲法改正によって自衛隊の国防軍レベルの引き上げの運動が盛んになってますが、いざ国軍レベルに軍を動かせるようになった後で戦争に巻き込まれそうになった場合に、かつての愚かな戦争と同じ轍を踏まずに正しい判断が下せるようにするため、
かつての悲惨な戦争の記憶は絶対に忘れてはならない。
(私ミカサは憲法9条改正には賛成なのですが、この間の靖国参拝や自民党の戦争認識方針の変更など慎重を欠いて安易に行ってるようで危うく感じます。)

小野田さんの訃報を聞きそう思いました。





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