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つくしのつれづれノート


戦艦大和の最期

今日4月7日は戦艦大和が戦没した太平洋戦争の坊ノ岬沖海戦からちょうど69年目になります。

戦艦大和…
それは巨砲で持って敵艦を撃滅する世界最大にして最強の日本海軍の戦艦であり、
日本海軍=大和
とまで言わしめるくらい現在においては日本海軍の象徴となっている軍艦です。
戦艦大和の最大の特徴といったら戦艦としては世界最大に艦載砲46センチ三連装砲三基!それは敵戦艦の砲弾の届かない距離から一方的に攻撃ができることを意味しました。
もう一つが巨砲とは対照的な両舷設けられたハリネズミのような沢山の対空砲。大和建造当初はこんなに多く設置されていませんでした。

世界最大の巨砲とハリネズミのような対空砲…
これこそが大和のたどる悲劇の象徴だったのです。


最強の戦艦として生まれたのになぜ大和は悲劇的な最期を迎えねばならなかったのか…?
まずは戦艦大和誕生の経緯からたどっていきます。




時は1905年の日露戦争末期、
戦艦三笠を旗艦にした戦艦4隻を主力に構成された日本連合艦隊が、戦艦8隻を主力にしていたロシアバルチック艦隊を相手した史上初の戦艦同士の艦隊決戦が起こります。
日本海海戦です。
新型の戦艦を揃えた連合艦隊は戦艦の数では上回るバルチック艦隊を壊滅させ勝利。この海戦の結果ロシアは講和を結ばざるを得なくなります。
この海戦の結果は世界中を驚愕させました。
それまでの戦争のイメージを一新し、戦艦こそが戦争の優劣を決める最終兵器と目されたからです。
その翌年、イギリスはそれまでの戦艦の火力と大きさを圧倒的に上回る新型戦艦ドレットノートを就役させます。(ド級・超ド級の表現はここから生まれた。)この戦艦ドレットノートをきっかけに列強各国で熾烈な戦艦建造競争が始まります。

日露戦争後太平洋を挟んだ日本とアメリカは互いを仮想敵国とみなして戦艦の開発を競うようになり、1923年アメリカは当時最大の41センチ砲搭載の戦艦を3隻そろえ数の上で優位になります。しかしアメリカはパナマ運河を通過できる戦艦の限界の大きさが41センチ砲搭載艦だった為に、それ以上の巨砲を搭載する戦艦が作れないとされていたのです。


そこに目を付けた日本海軍は1934年にそれまでの最大巨砲の41センチ砲を上回る46センチ砲9門を搭載した新型戦艦の設計を開始、1937年に建造が開始されます。
これがすなわち戦艦大和です。
敵にその存在を知られぬよう大和は国家の最高機密とされ、特に主砲46センチ砲は作業員にも40センチ砲ととしてその実態を知らされることなく建造が進められました。
こうして主砲46センチ砲9門搭載・排水量64000t・速力27ノット超・国家予算の3%という巨費を投じた世界最大にして最強の戦艦として大和は建造されます。
1941年12月8日、日米の全面戦争である太平洋戦争が勃発。その8日後の1941年12月16日に戦艦大和は竣工し、その姿を洋上に現しました。
世界最大として最強の戦艦として生まれた戦艦大和。
しかし皮肉なことにその誕生の時点ですでに大和の悲劇的な運命は宿命づけられていたのです…



大和に悲劇的な引導を渡したもの…
それは航空機でした。

きっかけは太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃でした。
日本海軍の戦略は米艦隊に艦隊決戦を挑むというものであり、その前に少しでも戦力を削ごうと空母部隊で奇襲をしたのです。
結果は予想をはるかに上回り、米太平洋艦隊の戦艦部隊が全滅してしまったのです。
それは航空機で戦艦撃沈は不可能という開戦前の常識を根底から覆すことになったのです。


「リメンバー パールハーバー」を合言葉に対日戦参加をに本腰を入れたアメリカは、真珠湾の結果を目にして主力艦を戦艦から空母に転換し、空母の大増産を始めます。
その数は
大型空母13隻
中型空母9隻
小型空母がなんと50隻(要するに週刊誌と同じ週1ペースで空母が出来上がる計算になる)
という途方もないものでした。
(なお上記は初期計画であり終戦時点までにでは連合国のイギリスに貸与したものを合わせて約150隻の空母を建造している。)

一方日本海軍は真珠湾攻撃を成功させたのにも関らず、戦艦こそが海戦の主力という概念を捨て切れずにいました。そんな中で1942年2月に大和は連合艦隊の旗艦に就役し、同時に同型艦武蔵も建造が進められていました。


そんな大和が初めて出撃した戦いが、太平洋戦争の転換期になった1942年6月のミッドウェー海戦でした。この時日本軍はまず先陣の空母部隊で米艦隊を叩いてそれから数100キロ後方の大和たち戦艦部隊でとどめをさすつもりでした。しかしそれは暗号解読で米軍に筒抜けであり、逆に米艦隊の空母からの艦載機の奇襲で先頭の空母部隊が全滅してしまったのです。大和は出番もなく引き返します。
その後戦艦の出番が減った為大和は海軍の拠点トラック諸島に置きっぱなしになり、周囲から「大和ホテル」と陰口を叩かれるようになります。


ミッドーウェー海戦の敗戦で海軍上層部もようやく空母増産に乗り出しますが日本の造船力はアメリカの1/10に過ぎずとてもアメリカに敵いません。そこで戦艦大和にも改造が加えられます。両舷のハリネズミのような対空砲はこの時につけられたものであり、まさに苦肉の策といったものだったのです。

1944年6月大和はマリアナ沖海戦に参加。しかしここでも空母による航空戦が主になり、大和は蚊帳の外でした。しかもアメリカの空母・艦載機は質量ともに日本を圧倒的に上回っており、空母へ集中攻撃された結果日本海軍の航空兵力は壊滅してしまいます。

そして米軍のフィリピン奪還が始まったその年の10月、海軍は大和を先頭にした戦艦部隊を航空機の支援なしで出撃せざるを得なくなります。
そうして起こったレイテ沖海戦は米軍の艦載機の一方的な攻撃にさらされる結果となり、同型艦・武蔵が沈没します。その翌日、大和は敵空母部隊に遭遇し実戦で初めて46センチ砲を発射して撃沈します。
これが46センチ砲唯一の戦果となります。
しかしのの空母は「ガンビアベイ」という小型空母50隻のうちの1隻に過ぎず焼け石に水の戦果にもならなかったです…
結局レイテ沖海戦で日本の艦艇は悉く撃沈され、事実上連合艦隊は壊滅します。
大和は辛くも生き残りましたが、もはや悲劇的な最期しか残されていませんでした…


1945年4月、米軍は沖縄に上陸。
残された大和に最後の出撃命令が下ります。
天一号作戦…それは沖縄への特攻でした。
一億総特攻の先駆けとして大和はわずかな小艦艇を連れて沖縄へ出撃します。
大和の出撃を知った米軍は迎撃を命令、坊ノ岬沖を舞台におびただしい艦載機が大和に襲い掛かります。大和は対空砲火で応戦しますが、なすすべもなく左舷に集中的に魚雷攻撃を食らいどんどん傾いていきます。
そして1945年4月7日午後2時23分、戦艦大和は横転し大爆発を起こして沈没します。大和の沈没によって約3000人が命を落としました。




…沈没した大和が海底で発見されたのは1985年のこと。
大和は船体が真っ二つになった痛ましい姿で海底に横たわっているそうです。
大和が誕生した呉にある大和ミュージアムには海底から引き揚げられた大和の関連の遺品が展示されており、凄惨を極めた戦争の実態がうかがえる貴重な資料となっています。


大艦巨砲主義の申し子として誕生したのに、その威力を発揮できずに南の海へ無残に沈んだ戦艦大和。
その悲劇的な最期を決して忘れてはなりません。

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2014/04/23 16:09
蘭丸様へ…「男たちの大和」でメインで描かれた少年兵たちは大体15~17だったとのこと。そんな子供を特攻の道ずれにしたのは国として本当に恥ずべきことだと思います。近代日本の軍隊で子供を戦地へ送り込無用な愚かな行為を行ったのは太平洋戦争だけだと思います。
初めから国力を比べて勝ち目がないとわかる戦争をやって子供まで戦争に送り込んで破滅するの最悪です。あの映画を見るととてもやりきれない気持ちになりますよね。
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2014/04/23 15:58
saki 様へ…軍の将校すべてが大学でというわけではありませんですが(正規の陸海の将校はそれぞれ陸軍士官学校・海軍兵学校を卒業してます。)、戦争などの軍事作戦を動かした軍上層部は確かに世間知らずなところがありました。士官学校時代からの閉鎖的な原因したのかもしれませんが、机上論理ののとらぬ狸の皮算用で戦争を実行したのはとんでもない話だと思います。
海軍の山本五十六(海軍元帥 連合艦隊司令長官)や陸軍の栗林忠道(陸軍大将「硫黄島からの手紙」)のように海外駐在武官を経験した武官であれば日本と海外の比較で戦争したらどうなるか一目瞭然なのですが、そういう人は中枢から遠ざけらていたみたいです。

このような状況は現在の日本だけじゃなく近隣諸国も尾の滋養に見えて余計恐ろしく感じます。
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2014/04/23 15:47
ジュエリ様へ…大和ミュージアムの前身は呉海事博物館というそうですね。自分も大和ミュージアム行きましたが大和関連の遺品は原爆資料館と同じくらい重々しい雰囲気でとても世界最大の戦艦!!なんて喜べる雰囲気じゃなかったです。戦争で非業の最期を遂げた人たちがどんな思いをしていたのかを窺うことができますよね。
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2014/04/14 23:39
OH!戦艦大和
映画 男たちの大和 見ましたよ
負けるの分かっていながら大和に乗り散っていく青年たちの光景が今も忘れなれない。
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2014/04/10 22:35
再度お邪魔します。
この当時の軍の上層部というのは、大学出の、実戦経験のない
人たちばかりだったようですね。紙の上での戦略で、兵士を使い捨ての兵器のように
考えていたようです。それがたくさんの悲劇を生んでしまったんですね。
開戦自体が間違っていたと思うのですが、
その当時もそれをわかっている人がたくさんいたにもかかわらず、
それを止めることができませんでした。
今の日本の状況が、とても似ている気がして心配でたまりません。
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2014/04/09 22:04
呉出身の私ですが 大和ミュージアムはまだ行ったことがありません。
高校生のころ 江田島の博物館には行ったけど 
特攻隊員の最後の手記とか・・・・
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2014/04/08 22:06
✽ もも ✽ 様へ…昔広島県呉の大和ミュージアムで坊ノ岬沖から引き揚げられた戦艦大和関連の遺品を見物したのですが、当時乗員が使っていた食器や犠牲者の身に着けていた靴や短剣等、博物館というよりも慰霊施設の様な重々しい雰囲気に包まれていて、とてもいたたまれなかったです。

戦艦大和の生還者は300人ほどいるのですが多くの人が語り部として早くから記録や講演などをしているそうであり、戦後大和が有名になったことで多くの文書が刊行されて見ることができます。
ちなみに映画などで一番リアルなのは1953年の「戦艦大和」であり、出演者の多くが従軍経験者・映画自体が大和生還者による監修があったこともあって描写は一番リアルだとのことです。
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2014/04/08 21:36
大和の数奇な運命が悲しくなりました・・

戦争の是が非はどうであれ大和の運命で語るのならもっと活躍の場があってしかるべき?
と思うのはいけないことなのかもしれませんが。
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2014/04/08 20:55
家主(≡▽≡)Z 様へ…わたしミカサ自身もフジテレビの「トリビアの泉」で取り上げられるまで超ド級の語源は知りませんでした。
写真に出てた戦艦ドレットノートは大和や長門などの超ド級・超超ド級戦艦を見慣れてる実からすればひどく貧弱にしか見えないのですが、「坂の上の雲」に出てくる戦艦三笠などの前ド級戦艦(ドレットノート以前の戦艦)が主砲30センチ砲4門なのに対してドレットノートはその2,5倍の30センチ砲10門という当時の常識を圧倒的に超えた化け物のような軍艦だったのです。ここから大和へ至る巨大戦艦建造の道が始まるわけです。
ド級・超ド級の言葉はその当時世界中が受けた衝撃を物語ものといっても過言ではないと思います。

大和の船体が折れた原因も火薬庫が原因だったようです。大和が転覆した際に環境のすぐ前の46センチ砲付近の火薬が爆発して船体が真っ二つになったのだそうです。

火薬庫は叩かれることで一撃で撃沈されることすらある艦隊決戦時の戦艦の弱点であり、ここをいかに守り抜くかが戦艦の防御力の優劣のポイントだったようです。
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2014/04/08 19:30
超弩級戦艦の「ド」は、おおゆみ(弩)を超えるほどの、という意味だと勝手に思っていました;
当て字だったのですね・・・。
今更にして知りました^^; ありがとうございます^^

46センチ砲の砲弾がごっそり残っていたのなら、誘爆は凄まじかった事でしょう・・・。
1発で花火の尺玉よりすごいんでしょうか・・・?
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2014/04/07 23:22
いちにぃ~ 様へ…「男たちの大和」のセットですね。残念ながら艦橋はなかったけど、主砲などを含めた実物大セットでの撮影した映像はCGやミニチュアによるまやかしの映像なんかを圧倒的に上回る迫力がありますね。
実物大の軍艦セットで撮影した作品だと「坂の上の雲」や「亡国のイージス」がありますが、群を抜いてすごかったのは「トラ!トラ!トラ!」の戦艦長門の実物大セットだと思います。何せ艦橋・主砲・煙突などを含めた戦艦長門の大半の部分を実物大セットとして作ってしまったわけですから…
CGもないアナログ時代にあの迫力はもはや伝説といっても過言ではありません!!
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2014/04/07 23:12
saki 様へ…確かにそうですね。この時代の日本にはあさはかな考えでとんでもない悲劇を引き起こした多いと思います。大和の建造自体に問題は無かったのですが、最終兵器と考えていた大和の活躍を自らの手で葬り去ってしまったのは皮肉というほかありません。
その大和の活躍を葬る結果になった真珠湾攻撃で活躍したゼロ戦も軍上層部のあさはかな指示で多くの犠牲を出したもののひとつであり、ある意味軍のあさはかな指示による犠牲はある意味大和に対するものよりも悪質かもしれません。
それについては昨年のジブリアニメ「風立ちぬ」上映時に書いてますのでよかったらご覧ください

http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1032798&aid=51687991
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2014/04/07 22:57
広島尾道にあった大和の映画セット、とっても大きくて感動でした
ハリボテだったけど、やはり実物大というのは良いですね

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2014/04/07 22:33
大和の最後ってくわしく知らなかったので、勉強になりました。
なんだか、その頃の日本を象徴しているようです。
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2014/04/07 21:38
奈柚様へ…誕生8日前の真珠湾攻撃によって生まれながらの不用品となってしまった戦艦大和の生い立ちはあまりにも悲惨すぎますね。
むしろ大和の功績は軍艦建造の技術面よりも、戦後その存在が知られたことによってプラモなどのおもちゃや映画漫画アニメなどのメディアの成長に大きな役割を果たした方が大きいと思います。
クールジャパンの原動力となっているジャパニメーションが発展する機会になったのも戦艦ヤマトをデフォルメした「宇宙戦艦ヤマト」だったわけですから…

ちなみに日本海海戦については主力の戦艦4隻と8隻の準戦艦(6隻ずつの部隊を2つで構成されるので六六艦隊という。)が単縦陣になって敵艦隊直進歩行を横一直線に遮断し、先頭から集中砲火で沈めていく丁字戦法という作戦でバルチック艦隊を壊滅させたそうです。
日露主力艦を比べてもイギリス製の日本の主力艦はロシアの主力艦の性能を圧倒的にうわまっていたようです。
「坂の上の雲」なんかで描かれていますよ。
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2014/04/07 21:11
戦争物は名詞やらなんやら 複雑で^^;
ちょっとよく分からないんですけど
戦艦大和の名前だけは知ってます
でもそんな不遇な身の上だったとは・・

それにしても あのバルチック艦隊を破ったのは どういう作戦だったんだろ・・・?
今でも信じられないのだけどねぇ
あのロシアに勝ったってねぇ・・
今も日本の海上保安は日本の領海を守ってくれてるんですよね^^
普段はなかなか そこまで思いよらないけど 感謝しないとね
昔の海軍 今の海上保安にね
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2014/04/07 19:10
なぎさ様へ…ヤマト映画っていうのは宇宙戦艦ヤマトではなくて戦艦大和の映画ってことですよね?
最近の映画なら逸見じゅん原作の「男たちの大和」(反町隆史・中村獅童・松山ケンイチ)だと思います。それより古いとなると1981年の「連合艦隊」(中井貴一のデビュー作)か終戦から8年後の1953年に製作された「戦艦大和」(出演者の大半が従軍経験者である為、もっともリアルな大和映画といわれる。)なんかがあります。

史実の坊ノ岬沖海戦での大和は曇り空の為にまともな照準を合わせることができず、主砲46センチ砲を一発も打つことなく戦没したそうです。

大和ミュージアムは一度だけ行きましたがもう一度行きたいですね。やはり呉は海軍関連の施設が多いです。鎌倉の近くにも旧海軍並びに海自(そしてアメリカ第七艦隊)の本拠地・横須賀がありますが、日露戦争の帰還・戦艦三笠しか言ったことがありません。
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2014/04/07 17:26
映画のヤマトをお正月にTVでやっているのを見たよ!題名は忘れたww
航空機をあの46センチ砲を手動でゴリゴリ動かして玉当てようってのが無理な話だわな~て見てて思った。

大和ミュージアムも一度しか見に行ってないんだけどまた行きたいな❤
確か、日曜とかだとちょっと離れたところで潜水艦にも乗れたような気がした^^
あいにく日曜じゃなくて乗れなかったんだけど、
今度はぜひ潜水艦も制覇したいじょb




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