Nicotto Town


つくしのつれづれノート


「もののけ姫」の銃火器と鉄砲伝来について


前々から鉄砲伝来についてやろうと思ってたんですけど、先週ちょうどタイミングよく「もののけ姫」が放送されてたので鉄砲伝来と一緒に作中に登場する石火矢なる銃火器について述べたいと思います。
(当初は銃火器アニメにならって「うぽって黎明編」というタイトルになるはずでしたwww)



まずは石火矢という銃火器が登場する「もののけ姫」の時代設定について
この作品は通常の歴史ではあまり脚光を浴びないアウトサイダーの視点から描かれている為正確な時代を判断するのは難しいのですが、作中で登場する街並みや登場人物の服装・その他諸々の描写などから大体作品の時代設定は室町時代後期ごろではないかと思われます。(ちなみに工芸品・美術品などの時代区分に戦国時代という区分は無いそうで大体室町時代後期もしくは安土桃山時代と分類されます。とりあえず「もののけ姫」作中は応仁の乱前後~戦国時代初期辺りかと推測しています。)
西暦に直して大体1500年代(16世紀)以前かと…


では質問
歴史の授業で習う鉄砲伝来の年は何年?






正解は一応1543年
鹿児島県種子島に漂着したポルトガル人が持ってた火縄銃を買い取り(火縄銃を種子島というのはこのため)、その後涙ぐましい努力を経て国産化成功して戦国時代の主力兵器となる…といったところなんですが、
それだと時代設定が何十年もしくは100年近く前の「もののけ姫」の石火矢が存在しえないことになってしまいます。ふつうなら誰だってそう思うでしょう。ふつうならね…
しかし…


実は戦国時代以前に物品として鉄砲が日本に入ってきてる記録があるんです

そもそも火薬は宋代もしくはさらに遡る唐代(いずれも鎌倉時代以前)の中国発明されたものであり、その火薬を有効に使う為に9世紀~13世紀の中国(唐代~宋代)で開発された兵器のひとつが鉄砲だったわけです。(ちなみに元寇で有名なてつはうは焙烙の様な手榴弾に相当し鉄砲ではない、他にもロケットなどの火薬兵器が中国で発明されている。)
…でこの当時の鉄砲がどんな形をしてたかというと
銃身の末尾に木製の杖の様な形をしてるものが付いており、発砲の仕方は銃身の弾薬が詰るところについた穴に直接火種を押しつけて発射するというものです。
くどい説明ですが
要するに形も使い方も「もののけ姫」に登場する石火矢そのものです。
中国では火槍、アラブ世界ではマドファという名称で呼ばれており、モンゴル帝国の中東侵略の過程でアラブ世界→ヨーロッパへ伝来しそれが進化して大航海時代によって日本にやってきたのが戦国時代の火縄銃というわけです。
しかし元々の鉄砲の発祥の地はお隣の中国なわけで、
鉄砲伝来以前に日中の貿易で火槍が輸入されてもおかしくは無いわけです。
(ちなみに室町時代の明との貿易で日本側の主力輸出品のひとつが火薬の原料となる硫黄であり、火槍の存在を全く知らないとは考えにくい。)

…と思って調べてみたらなんと応仁の乱以前の15世紀にに当時の李氏朝鮮や琉球などからやってきた人間が持ってきた火槍の類と思われる鉄砲の試し撃ちをお披露目したという記録がいくつも存在していたのです。(古いものでは15世紀初期の記録がある。)
そして驚くべきことに
なんと応仁の乱においてこの火槍が実戦配備されていたそうです。
(使用されたかどうか定かではありませんが大将の陣営に配備されてたとのこと。)
これにはビックリ!!


宮崎駿がここまで火槍の伝来について知っていたかは知りませんが、「もののけ姫」の石火矢は中国から輸入された火槍を国産・改良したという設定の元で登場している銃火器なのだそうです。(う~ん、「もののけ姫」はすごく奥が深い…)
ちなみに石火矢という名前は本来戦国時代に使用されていた西洋製の大砲のことを指します。

他にも戦国時代初期(1520年に)に小田原城の戦国北条氏が中国製の青銅の銃を使ってた記録がある等、
鉄砲伝来以前に日本に鉄砲が伝来してる可能性は非常に高いと言えます。





しかし、だからと言って学校で習った1543年の鉄砲伝来の事件の価値が下がるわけではありません。
というのも上記の原始鉄砲は結局のところ役に立たずに歴史の闇に消えてしまった兵器だからです。

原因は当時の日本が鉄砲に必要な火薬をつくることができなかったということ
火薬(黒色火薬)の原料の木炭・硫黄・硝石(硝酸カリウム)のうち
硝石が国内では手に入らなかったのです。
(硝酸カリウムの培養方が確立されるのは鉄砲伝来以降。戦国時代は硝石の大半を輸入しており、織田信長は火薬や鉄砲関連の重要拠点を押えることで天下平定を有利に進めていた。)


結局戦国時代の鉄砲伝来の意義というのは
鉄砲伝来によってそれまでの合戦の戦術が一新し、一気に中世から江戸時代に至る近世に変化していったことが重要なわけで
それ以前に入った原始鉄砲よりも重要事件だったんです。
要するに火縄銃は新時代へのキーアイテムだったわけです。
(そうなると織田信長はキーマンですね(^-^))

当初は1発撃つのに時間がかかることから多くの武将から火縄銃は不用品と見做されていたのですが、織田信長による長篠の合戦で武田勝頼の大軍勢相手に約3000丁用意した火縄銃を一斉射撃して大敗させたことから様相は一変して火縄銃が日本中に普及、
戦国時代末期の日本にはなんと50万丁以上の鉄砲が存在していたとされ
当時の日本は世界最大の銃大国だったということです…


のち江戸時代になって火縄銃の規制が厳しくなって、進化することなく幕末に西洋から入ってくるライフル銃に圧倒され姿を消していくことになります。
しかしだからといったら話は別だそうです。
火縄銃は射程距離内だったら戦国時代の甲冑でも確実に撃ち抜くことが可能であり、しかも鎧の胴に命中した場合には胴に穴があいたときの破片が弾丸と一緒に放射状に飛び散って体の広範囲に命中するため、
ショットガンが命中した時と同様な状態で即死するそうです。
(火縄銃が西洋銃に敵わなかったのは射程距離の長さだけだったそうだ。)
戦国時代は想像以上に壮絶ですね…




そんな日本の火縄銃が現在どうなってるかというと
世界中で古式銃の射撃大会の必勝アイテムになってるということです。
要するに日本製の火縄銃の命中精度が極めて高く、国を問わず上位入賞者の多くが日本製の骨董品もしくはレプリカを使用してることが多いということです。
日本人の手先の器用さというか、精密機器を作り上げるスキルは大昔から存在してたわけですね。

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2014/07/11 20:02
ジュエリ様へ…一応古代日本に中国から弩と呼ばれるボウガンが入ってきてるんですよね。
ところがボウガンは次の矢を装填するのに時間がかかる為野戦には不向きであり、ボウガンのコストも弓よりはるかに高かったために武士が登場する頃には廃れてしまったそうです。

鎧はイカに重装備でも鉄砲や槍の刺突などの一点集中攻撃にはめっぽう弱く、銃の射程距離と命中精度が上がったことで無用の長物になっていきました。
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2014/07/11 19:52
家主(≡▽≡)Z 様へ…まあ原始鉄砲は日本の歴史に何の影響も及ぼさなかった代物なので歴史の闇に埋もれて忘れられても仕方ないのですが、それでも掘り返してみたらまた違った歴史の光景が見えてくるので面白いですよね(^-^)

戦国時代は戦乱の他に飢餓・疫病(当時世界的な気候変動で至るところで不作続きだったらしい。)などで人の死が身近であり、冬季には飢えを凌ぐために戦に出かけて略奪をしなければ生きていけない世の中だったとも聞いています。(武士も戦で負ければ百姓たちの落ち武者狩りに襲われていた。)
そんな過酷な世界だったからこそ現代より比べ物にならないくらい一生懸命生きてたんでしょうね
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2014/07/11 19:40
大潮 様へ…鉄砲自体は武田信玄も牽制用で鉄砲隊を組織してたみたいですけど、鉄砲隊の一斉射撃で敵軍を圧倒したのは信長が初めてだそうで、しかも3000丁の鉄砲隊による戦闘は当時世界史上最大規模だったそうです。
しかも長篠の合戦の戦術については百年戦争のイングランド軍の長弓隊のロングレンジ攻撃を宣教師から聞いて発想したのではないかとも言われいます。
織田信長は次の時代の近世を飛び越えた日本史上最初の近代人とまで言われているところを見ると、戦国時代に天下を平定して新時代を築けるのは信長一派以外絶対にいなかっただろうと思います。
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2014/07/11 00:17
弓のほうも ボウガンになると金属鎧を突き抜けたそうですね
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2014/07/10 22:39
鉄砲伝来。歴史に残っているもののうち、私たちが教科書で習うのは結局のところ覇者の歴史であるわけで、それ以外のものは結構闇に葬られていたり、取り立てて言うほどではない(何故なら無名だから)という理由で小さく扱われたのでしょうね・・・。

火縄銃を受けると、鎧の貫通点でまず放射状に爆発的に組織を破壊し、次に鎧の金属片が跳弾のように鎧の内側で反射して、更に組織を破壊していくのでしょう。
こうなると患部はミンチ状になるので、手の施しようがない・・・。
即死はしなくても、相当に死の予感と直面し果てると思います・・・。
中世ヨーロッパのように、戦国時代の日本の死に対する意識は今とはかけ離れていたと思いますが、それでも、少数派に属する、痛みを分かる人々には、時代こそが脅威だったでしょうね・・・。
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2014/07/10 12:36
ううむ、奥が深い。
宮崎駿しかり
みかさブログしかり。
硝石と硫黄は交換貿易になっていたのだろうか?
疑問がふつふつ。
武田信玄の宝物蔵を見学したとき
ヤシの葉に書かれたサンスクリット経典を見て
こういうものを見せびらかして敵をびびらせていたな信玄はと思ったけど
織田信長も硝石を仕入れると同時に西洋の衣装を輸入して着ていたそうだから
自分で着て宣伝している織田信長のほうが一枚上手かな
それとも大切なときには信玄も西洋の衣装を身にまとっていたかな?




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