Nicotto Town


つくしのつれづれノート


翼はよみがえった 続「風立ちぬ」

※タイトルの通り「風立ちぬ」の堀越二郎の戦後という意味合いを込めてますが、具体的に言うと堀越達戦前の航空技師たちが戦後作った今現在戦後唯一の国産旅客機YS-11に至る経緯を記事にしてみました。
NHKドキュメンタリー「プロジェクトⅩ」のYS-11開発の前後編をベースにしてます。



上記YS-11は戦後唯一の国産旅客機であり、日本が世界に誇る新幹線と共に日本の高度経済成長のシンボルとして日本人に愛されている飛行機です。しかしながらこの飛行機の誕生自体が戦後の産業史の中で奇跡といわれるほどイレギュラーな存在だったとも言われる代物だったりします。
というのもYS-11のプロジェクトが始まった時点で戦前に培った日本の航空産業が消滅していたからです。


時はWWⅡ敗戦の1945年から1952年までの7年間、日本では航空機の開発・研究の一切がGHQによって禁止されていた時代がありました。
WWⅡで最終的に日本の航空戦力は連合軍に質量共に圧倒されましたが航空技術は決して侮れるものではなく、これを野放しにしてしまえば軍事だけでなく民間産業をも連合国側の脅威になると思われていたからです。(こうしたことは航空産業だけでなくありとあらゆる分野で戦前日本のシステムは徹底的に解体されていった。)
日本の国際社会復帰と共に1952年に航空開発・研究が解除されたのですが、すでに日本の空は海外メーカーの航空機に支配されているという有様でした。
そうした有様に危機感を抱いた通産省(現:経済産業省)の若手官僚の提案からこのYS-11に至る国産旅客機開発は始まったのだそうです。

国産機開発に当たり戦前の航空産業を支えた航空技師の第一人者たちが集まり「輸送機設計研究協会」が発足しました。
メンバーは堀越次郎(ゼロ戦)・太田稔(一式隼)・土井武夫(三式飛燕 メンバー中設計機種最多)・木村秀政(元東大航空研究所のエース)・菊原静男(紫電改 二式大艇(WWⅡ時世界最高の大飛行艇。この間遭難したヨットの救助に成功して話題になったUS-2の直系の祖先になる。)の5人。(皆東大航空科卒の学友)
いずれも戦後の航空機開発・研究禁止によって路頭に迷うことになり、そんな中で自らの手で飛行機を飛ばす最後のチャンスということで凄まじい熱意を燃やしていたそうです。彼ら五人は当時大ヒットしていた黒澤明の「七人の侍」をもじって五人のサムライと呼ばれていました。

プロジェクトで作ろうとしている旅客機は航空技術のみならずありとあらゆるジャンルの最先端が結集したいわば国の産業の象徴ともなるシロモノであり、軍用機専門(特に戦闘機中心)だった5人のサムライからすれば未知との遭遇。さらに敗戦による国産航空産業の消滅と航空禁止された7年間の間の飛躍的な航空技術の進歩(それまで主流だったプロペラ機からジェット機が主流になり、B-29よりデカイ旅客機が登場し始めた時代。)でほとんどゼロからのスタートだったということです。
そのため国産旅客機開発は不可能だと国内外からの反発も大きく五人のサムライの元にはど素人同然の若手ばかりが集まりました。五人のサムライはこの若手を徹底的に育て上げてYS-11の基礎設計に当たります。
1958年、基礎設計を元に作った実物大の精密木製模型を政府に見せつけて試作機製作の予算を獲得し、YS-11開発プロジェクトが本格化しました。ここからさらに精密な設計を膨大に繰り返して形にしていくのです。

しかしその矢先、プロジェクトを引っ張ってきた5人のサムライが引退することになり、周囲に衝撃が走ります。すでに五人のサムライは60に差しかかかり、国家プロジェクトを引っ張るだけの力が残って無かったのです。五人のサムライは自らに代わるYS-11の設計主任を引っ張ってきます。
その名は東条輝雄。
A級戦犯として処刑された東条英機元首相を父に持ち、戦前は堀越二郎の元でゼロ戦の設計にあたった五人のサムライの後輩です。YS-11設計主任に指名された当時、三菱重工でF-86セイバー戦闘機(草創期のアメリカのジェット戦闘機。ゴジラ映画によく登場しましたよね。)のライセンス生産を手掛けていました。
その経験から欧米との技術格差を思い知っていたため、YS-11プロジェクト参加を当初誇示してたそうです。
この東条輝雄を中心に本格的なYS-11の設計が進み、1962年試作1号機が初飛行。
試験飛行と設計の試行錯誤を繰り返し、1964年に民間旅客機として就航が実現。(東京オリンピックの聖火を空輸したりしてます。)
日本の翼はよみがえりました。



…でその国産旅客機YS-11の評価はといいますと、はた目からは新幹線と共に日本の高度経済成長期を象徴として初飛行から50年以上たった今現在でも日本人から名機として愛されているものの、必ずしも名機といえるかはあやしいかもしれません。
というのも、基礎設計の中核となった五人のサムライが戦前の軍用機設計のエキスパートだったこともあり、YS-11は旅客機よりも軍用輸送機の性格に近いものだったそうで、耐久性と信頼性がある分(っていうか旅客機としては過大すぎる。)騒音と振動で快適性が悪く、運用側からは扱いにくい飛行機として評価は厳しかったそうです。操縦システムも旧式だったことからパイロットからは世界最大の人力飛行機と揶揄されていたとか(その操舵性の問題から一度は旅客機失格の烙印を押されそうになったことがある。)
それでも改修に改修を重ねた結果旅客機としての信頼性を高めて、最終的に182機が生産され国内外を飛びまわることになります。

しかしこのYS-11は初飛行からわずか10年ちょっとで生産打ち切りとなってしまいました。コスト削減ができないまま作れば作るほど赤字になり、売り込みが思うように行かなかったという技術面よりも商業的に失敗したということみたいです。その後1980年代にYS-11の後継機の計画も持ち上がっていたのですが、それもバブル期の貿易摩擦のあおりを食らってつぶれてしまい、結局YS-11初飛行いら50余年、新しい国産旅客まだ現れてません。

それでも国内では2006年海外では2008年にYS-11は運用され、事故やハイジャックなどで失われた機体はあるものの設計上の問題で墜落したことはないのだそうです。
ちなみに民間機としては退役したYS-11ですが、
航空自衛隊では未だに現役だったりします。
(民間機に比べると軍用機は酷使されてないので寿命は長いとのこと)



そして、只今三菱重工がYS-11以来の国産旅客機MRJを開発中。(規模は100人程度の小型旅客機。)もし成功すればYS-11を上回る規模で日本の翼は世界を飛び回ることになります。そろそろ初飛行開始で運用は2015年とのこと。
翼よ、再びよみがえれ!!











…と本当は書きたいことなのですが、先日のニュースでMRJの初飛行・量産型納入がさらに1年以上延びるようです。YS-11も開発が遅れて販売シェアに食い込めなかったということがありこの開発の遅れがMRJの致命傷とならなければいいのですが…

日本の翼はよみがえるのでしょうか…?

アバター
2013/08/25 12:35
たまねぎ様へ…キチンと資料整理してない状態で書いてしまうとよくあるんですよね(苦笑)
五人のサムライもすでにこの世を去り、彼らが育てた若手設計士も一線を退いためYS-11の技術は継承されることなく断絶してしまい、国産旅客機のできない有様を嘆いていたそうです。
是非ともMRJで彼らの無念を晴らしてにらいたいものですね。
アバター
2013/08/24 22:12
書いてる途中で消えてしまったとは><
そういうときって萎えますよね。よくぞ新たに書いてくださいました!よみがえった!
5人のサムライも、今現在の国産飛行機開発を見たら、喜ぶでしょうね。
いろんな壁にぶつかりながらかもしれないけど、
自分の後輩たちが彼らの精神をちゃんと受け継いで完成を目指してがんばっていますから!
遠くから日本の翼を応援しましょうw




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.