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つくしのつれづれノート


鎌倉最期の日


今日は鎌倉幕府が滅亡した日に当たります。1333年5月22日、鎌倉幕府は新田義貞率いる大軍に攻め滅ぼされ、幕府の頂点に立つ執権北条氏はほぼ根絶やしにされてしまいました。
鎌倉幕府の滅亡にいたる事件を元弘の乱(1331~1333年)といいます。
いち政権の滅亡は歴史上別に珍しいことではありませんが、滅亡した政権の支配者一族の処遇に比較的甘い日本においてこの鎌倉幕府の末路については日本史上最も凄惨を極めた滅亡劇だといえます。




その鎌倉幕府滅亡にいたる過程が以下の如し

鎌倉時代末期、社会は大混乱していました。平安鎌倉期から続く社会システムが矛盾して武家が疲弊し、貨幣経済が普及したことによって経済システムが激変し始めたのです。公家社会でも天皇家が二つに分かれて対立するなど、身分問わずにカオスな状態になっていたのです。
そんな中、鎌倉幕府の頂点に立つ執権北条氏は混乱した社会を立て直す決定打が打てず、それどころか社会が疲弊し混乱してる中で北条一族だけが私腹を肥やしている有様…(しかも幕府も将軍を補佐する執権北条氏の補佐の内管領が政治を牛耳る有様だった。)
御家人をはじめ多くの人間が鎌倉幕府に不満を募らせていました。


そんな幕府体制の動揺に動じて倒幕運動の策謀を始めたのが後醍醐天皇でした。後醍醐帝は幕府を滅ぼして天皇中心による新しい官僚体制を打ち立てようとしたのです。(動機は自分の血統で皇位を独占することだったそうですが…)
この後醍醐天皇が倒幕の為に挙兵を呼び掛けたことから元弘の乱が始まります。


当初後醍醐帝の挙兵に呼応したのは楠正成や赤松則村(「軍師官兵衛」に登場する赤松氏の先祖)といった商売で勢力を伸ばした武家である悪党という勢力でした。一見してみれば何十万と兵力を動員できる幕府軍に比べれば吹けば飛ぶ小勢力に過ぎないのですが彼らがそれぞれ山城に籠ってゲリラ戦を展開し始めた為、ゲリラ戦が未経験だった京都六波羅探題の幕府軍(六波羅軍。この時の動員兵力は十万以上。)は翻弄され、戦が長期化したのです。
この思わぬ苦戦に動揺した幕府は御家人・足利高氏(後の室町初代将軍・足利尊氏)に援軍の出兵を命じます。


足利氏は幕府創始者・源頼朝と同じ源義家を祖とする清和源氏の名門であり、鎌倉末期には北条氏に次ぐ勢力を誇った幕府の最大野党となっていました。その為、北条氏にとっては最も警戒すべき勢力だったのですが、自力で西国へ動員できる兵力の限界を超えていた為に足利軍に頼らざるを得なかったのです。
その保険に北条氏は足利高氏の妻子を人質に差し出させてから出兵させました。


しかし元弘の乱で多くの武家が幕府から見放されている有様を目の当たりにしていた高氏は表向きでは幕府に恭順する素振りを見せながら密かに後醍醐帝に倒幕の許可を貰い鎌倉幕府から離反する決意を固めていました。
こうして各地の一族と合流して総勢1万の軍勢に膨れ上がった足利軍が京都に上洛。
そして1333年4月29日、
足利軍は悪党討伐に手を焼く10万の六波羅軍を背後から襲います。
数で圧倒的に勝る六波羅軍でしたが突然の味方の裏切りに動揺しなすべもなく5月7日に壊滅します。承久の乱(1221)以来朝廷を100年以上監視続けていた六波羅探題はこうしてあっけなく滅亡したのです。




…でここからが本題の鎌倉攻め
5月8日、足利軍が叛旗を翻したことで幕府内が混乱してる中(まだ六波羅軍壊滅は伝わってない。)、上野新田荘の御家人・新田義貞が挙兵します。
(新田氏も源義家を先祖とする源氏で足利家の本家筋に当たる。しかし源平合戦時最後まで源頼朝に非協力だった為鎌倉時代通じてぞんざいな扱いだった。)
あまりにもタイミングが良過ぎる為高氏と示し合わせていたと言われますが、幕府から戦費調達のために法外な軍資金を要求された為とも言われます。
とにかく新田義貞が挙兵。
その数は当初数百という貧弱なものでした。
しかし新田挙兵の一報を聞きつけ馳せ参じた地方の新田一族や幕府離反者が集まり始め、さらに人質状態から鎌倉を脱出した足利高氏の嫡子・千寿王(室町二代将軍・足利義詮)が新田軍に合流したことによって馳せ参じる将兵が爆発的に増えてあっという間に数万を超える大軍勢へと成長していきます。(「太平記」では最終的な兵力は20万と記述)
こうして新田軍は幕府による討伐軍を次々と撃破しついに幕府の本拠地鎌倉攻略に差しかかります。


しかし鎌倉は城塞都市であり、しかも敗走した幕府の北条勢がすべての切通を堅く封鎖した為に、各切通の攻略で大苦戦を強いられました。(このさなかに最期の16代執権北条守時が戦死。彼ら北条勢を供養する泣塔が強力な心霊スポットとして有名)
そこで新田軍は稲村ケ崎の方に向かい干潮で干潟になったところを狙って鎌倉に乱入したと伝えられてます。この思いがけない展開に北条勢は動揺し稲村ケ崎から最も近い極楽寺坂の切通の防衛ラインが突破されておびただしい数の新田軍が鎌倉になだれ込みました。
新田軍はところ構わずに放火を始め、街中が火事と市街戦で大混乱になり、鎌倉は瞬く間に新田軍に席巻されていきました。
追い詰められた執権北条氏の一門は城塞都市鎌倉の詰めの城に相当する葛西ガ谷の東勝寺に立て篭もり、そこで寺に火を放って惣領・北条高時(14代執権)以下北条一門800名以上が自刃に至ります。
1333年5月22日、ここに鎌倉幕府は滅亡します。





…現在の鎌倉でも発掘作業によって当時の爪痕を垣間見ることができます。
例えば発掘された鎌倉幕府の滅亡の際の犠牲者の遺骨の状況から
北条高時の趣味で飼われていた数千頭の闘犬が合戦の混乱で野犬化し、犠牲者の死肉を喰い散らかすという地獄絵図が展開されていたことがわかっています。
また北条一門が自刃した東勝寺の跡地には腹切りやぐらなるものが存在し心霊スポットになっているらしいです。(泣塔に比べると無名)ただ腹切りやぐら付近に北条一門が埋葬されているわけではなく、近くの釈迦堂切通し付近のやぐら群から出土した大量の生焼けの人骨がそれだとされています。
そんな凄惨な光景が展開された為に幕府を滅ぼした足利高氏・新田義貞共にそれぞれ宝戒寺・九品寺という鎌倉幕府滅亡に伴う戦没者の供養の寺を建立しています。





…こうして鎌倉幕府は滅んだわけですが、滅亡によって上記の社会の混乱は収まるどころかさらに混迷を深めていき、数年後には約60年にも及ぶ南北朝動乱に発展、さらにそれを終わらせた室町幕府も完全に社会システムを構築できぬまま応仁の乱で衰退…
鎌倉末期に始まる社会変革による混乱が終結し世が安定するのは安土桃山・江戸時代まで待たねばなりません。
こう見ると日本史上最も完成された時代は江戸時代だけなのかな…なんて思ったりもします。









ちなみに上記で執権北条氏は根絶やしにされたと書きましたがほんの一握りだけ生き残った者もいたそうであり、坂本龍馬に影響を与えた思想家の横井小楠や絶対的な映画スター・高倉健などがその末裔だとされています。
う~ん…あの健さんが執権北条氏の末裔だったとは…
オドロキ!!






なお大河ドラマ「太平記」でこの鎌倉幕府滅亡は細かく描かれており、その迫力と諸行無常差から鎌倉幕府滅亡の回は歴代最高傑作の評価を受けています。レンタルで置いてますのでよかったら見てください。

アバター
2014/05/23 23:55
ほおおお…あの健さんがねー。
存じませんでした。
アバター
2014/05/23 00:55
へ~。
みかささんとこは、ためになるな~。
見てみたい。




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