一斉射撃 よーいドン ~長篠合戦~
- カテゴリ:勉強
- 2015/06/29 20:34:12
なんでも今日が長篠合戦が行われた日なのだそうです。
ときに1575年の今からちょうど440年前のこと。
織田信長・徳川家康の連合軍が風林火山で有名な武田信玄の息子武田勝頼の軍隊を3000丁の鉄砲をぶっ放して壊滅させたというのは歴史を習い始めた小学生でも知っていること。
よく言われているのは三人ひと組で鉄砲を連射させる三段撃ちによってまるでマシンガン状態にして有名な武田の騎馬隊を屠ったということ。
ところが・・・
この長篠の合戦
実像が今一つよくわからない大戦なのだそうです。
困ったもんだ。
なんでも鉄砲の三段撃ちなるものは江戸時代に描かれた信長の伝記小説「信長記」に描かれたフィクション性の高い代物でありかなり怪しいのだそうです。
兎にも角にもまずこの長篠の合戦の概要について説明します。
合戦の発端は武田勝頼が徳川家康の家臣奥平信昌の居城である長篠城を攻めたことに始まります。
武田の軍勢は一万五千
その長篠城を救うため徳川家康は盟友の織田信長力を合わせた総勢三万の軍勢で対抗します。
しかし数で圧倒的に勝る織田徳川連合軍はすぐに攻めかかろうとせず三重にも重ねた柵を築き始めました。
そこへ武田の大軍が攻めよせます。
すると作の奥からかまえられた3千丁の鉄砲が一斉に火を噴き、結果武田の軍勢は壊滅した、というものです。
まず指摘したいのが武田軍と織田徳川連合軍の数
なんと1万5千vs3万!!
単純計算しても織田信長は武田軍の2倍の軍勢の軍勢を用意してしまったのです。
だれがどう見てもまともにかかって武田軍には勝ち目がないのは明白です。
しかも織田徳川連合軍はまともにぶつかろうとせずに長大な柵を作り始めてしまうのです。このレベルになるともはや策ではなく夜戦築城たる立派な要塞です。これなら鉄砲で無く弓だけでも瞬殺できそうです。
それだけではなく偉大な先代武田信玄に比べて勝頼は人望が無かったとさえ言われ、戦国最強と言われた武田軍自体がこの時点で空中分解していた状態だったも言われています。
この状態では武田軍の敗北が確実になっていったということをだれもが実感したのではないでしょうか。
この状態でヘタに逃げたりすれば逆に追い打ちを仕掛けられ大惨事にもなりかねず逃げるに逃げられなくなった武田軍が織田徳川連合軍の鉄砲の餌食になってしまったのかもしれません。
よく勘違いされているところによると武田軍は壊滅の一言のせいでこの長篠の合戦によって皆殺しにされたイメージが付いてしまってるようですが、実際の人的被害は1千人程度と比較的軽微だったようです。
しかし!!
壊滅という言葉は兵員が全滅したことだけを意味するだけではなく指揮系統を破壊されたことにより総崩れになることも意味するのです。
実はこの合戦で戦国最強の武田武田軍をささえた重臣クラスの多くが討ち死にしており武田軍の指揮系統はズタズタ。
一説によると主君勝頼を見限っての特攻だったとも言われています。これは武田軍にとって致命傷以外の何物でもありません。
要するに武田軍はこの長篠合戦で事実上の壊滅をしていたのです。
この結果武田軍はどんどん勢いを失い1582年織田信長の武田攻めによって瞬殺されます。(とはいえ7年間維持してたことはさすがと言うべきか…)
正直言うと状況から見て武田軍は戦う前からすでに負けていたというのが実像の様です。
まさに「お前はもう死んでいる」状態。
本当に無念というほかありません
今宵はそんな武田軍の無念を肴に酒でも飲みましょうか…
ご先祖様は参陣しなかったようですが、長篠合戦はワクワクしますね。
どうしても信長さまびいきで(笑)
やはりリーダーの資質と言うものが
集団の能力を最大限にしたり、全く役に立たなく
したりといういい事例ですね。
「人は城、人は石垣」が崩れればあっという間だってことがよくわかる一例ですよね。
今まで、長篠の戦と言うと信長目線が多かったですが、
そういう事実があったとは!
行くも帰るも出来ない、勝頼の絶望感を思うとちょっと哀愁ですわ(==。