Nicotto Town


つくしのつれづれノート


桶狭間の戦いの日


5月19日は織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間合戦の起こった日なんです。

…といってもこれはあくまで旧暦上の話で西暦に直すと1560年6月12日のちょうど梅雨時に起こったものらしいです。
まあ当時の旧暦と西暦がごっちゃになってややこしいので今回はそこをあまり考えずに5月19日に起こったということで話を進めていきます。
(いずれ6月12日に同じ内容のブログを投稿するんだろうなあwww)



まずは一般に知られている桶狭間合戦の概要。
この合戦は当時海道一の弓取りとうたわれた東海地方を制覇した戦国大名・今川義元が上洛を目的に織田信長の支配する尾張領(現愛知県)へ2万5千の軍勢を率いて侵攻したところを、織田信長が2千の軍勢を率いて桶狭間に休憩している今川義元の本陣の背後を急襲し大将・今川義元をはじめとする今川方の有力武将を討ち取ったというものです。

この結果戦国大名・今川氏は10年もたたないうちに滅亡、
故郷を追われ人質として今川の傘下に降っていた松平元康(後の徳川家康)は敗走しつつも空白地帯になった岡崎を奪還、
今川方として参戦した父親が討ち死にしその後を継いだ元婚約者も直後の混乱で殺された結果女城主・井伊直虎が誕生する…
そんなことが只今放送中の大河ドラマ「おんな城主直虎」で描かれています。




…がしかし!
これは江戸時代の読み物「信長記」で広まった創作上のイメージに過ぎず、
実際は信長の軍勢が大将・義元以下今川軍の有力武将が軒並み討ち取った以外は詳細が不明という謎が多い合戦なのだそうです。

兎にも角にもこの合戦については双方の兵力の数をはじめ
なぜ(Why)・どこで(Where)・どのように(How)
の基本的な情報が正確にわからないのです。



・まず兵力
どれくらいの数だったか?
一般に今川2万5千VS織田2千とよく言われますが(記述書籍によっては2万~5万と幅が広い。)、この当時今川義元が2万5千も兵力を集められたのか怪しいらしく(桶狭間の数年後に行われた川中島の合戦の武田信玄・上杉謙信の2万・1万3千とされるそれぞれの兵力も義元の2万5千には及ばない。)、
さらに義元は兵力を分散して織田方の砦を攻略しており、攻略直後に信長に急襲された義元の本陣の兵数は5千余だったといわれています。
そして義元を襲った信長の兵力2千も信長が動員できる最大兵力ではなく、織田方の各城砦に兵力を分散したうえで信長が率いた一部に過ぎないということです。




・次にWhy
なぜ合戦が行われたか?
上記の通り義元が上洛の為通り道となる尾張を通過しようとしたということがよく知られていますが、そもそも敵地を制圧せずに通過して上洛自体が無謀極まりなくそのための根回しの痕跡もないことから上洛が目的というのはあり得ないのだそうです。
その為学術的には冒険主義的な上洛ではなく単なる隣国への侵攻が目的というのが一般的なのだそうです。(なんでも室町前期に一時的に尾張が今川領だったとして失地回復の目的で尾張に執着してたと考える学者もいるそうです。)



・そしてWhere
どこで合戦が行われたか?
桶狭間合戦なんだから桶狭間に決まってんだろと誰もが思いますけど、
この桶狭間が現在のどこのにあったかが正確にわからないのです。
信長研究に欠かせない基本資料「信長公記」には
(江戸初期の小説にすぎない「信長記」に対し、「信長公記」は信長の家臣・丹羽長秀の右筆だった太田牛一が長秀・秀吉家臣時代の記録を元に編纂した信長の一代記であり、客観的で正確な記述内容から資料価値が高い。)
桶狭間山に本陣を置いた義元が信長の奇襲によって退却するも追いつかれて田楽狭間で討ち死にしたということが記述されているんですがこの「桶狭間山」と「田楽狭間」の場所が確定していないわけで…
現在桶狭間の主戦場を主張する自治体が愛知県には名古屋市緑区と豊明市の二つ存在し、今現在観光振興のため双方が「わが町こそ本家」と対抗してPR合戦を白熱させてるのだそうです。只今放送中の大河「おんな城主直虎」でも桶狭間合戦が最初のハイライトとして描かれており、桶狭間の回の直前この二つの自治体がPR合戦で火花を散らしていることがニュースになっていました。
双方とも各領域内に桶狭間合戦に関する伝承や史跡が存在してるようで…
ただし桶狭間合戦時、今川軍は兵力を分散して広範囲にわたって展開しており、信長が義元本陣を急襲した際も2千VS5千余の兵力がぶつかってる為戦場が広範囲にわたってることが予想されることから(しかも義元はそこから退却し追いつかれて討ち死にしてることからして)、
主張する2地点双方とも桶狭間主戦場の本家として差支えないとする意見もあるみたいです。



・最後にHow
どのようにして合戦が行われたか?
桶狭間の窪地で休憩して油断する今川義元本陣の情報を得た信長が迂回して背後から奇襲に及んだという源平合戦における源義経の逆落としを連想させる内容がよく語られますが、
これは読み物「信長記」における創作であり、
実際は義元本陣とは知らずに今川勢のいる桶狭間山に駆け上り真正面から突撃したとみられています。
上記の通り「信長公記」における義元の本陣は桶狭間山であり窪地や谷の類ではないのです。いくらなんでも山から見渡せる状態で油断してたというのは考えにくいわけです。(今川方が油断していたという資料が乏しいわけで。)
しかし桶狭間で信長に追われた時点の義元本陣は今川方の城から出陣して間もない陣形の整っていない状態でしかも雨が降って状況が見渡しづらく山の上でも周囲が入り組んでる地形に位置していることから身動きがとりづらいという、
油断の有無に関わらず不運な状況が重なってあっという間に大混乱になって敗走してもしようがないらしいのです。(結局混乱を収支できずあっという間に義元以下今川有力武将が悉く討ち取られていったとのこと。)
そして信長自身義元の首を狙ったわけではないとのこと。
「信長公記」によると信長は自分の領域の砦の陥落を受けて「城攻め直後の軍勢は疲れ切ってるはずだから今がチャンス!」と反対する家臣をはねのけて出撃したということであり、
どうも信長は義元の首ではなく砦を落とした今川勢を叩いて劣勢だった戦の流れを変えることを狙っていたようです。
そして先鋒隊と勘違いして急襲したら偶然にも大将今川義元の本陣であり、結果義元本人を討ち取ったというビギナーズラックだったといわれているのです。





結局決定的な証拠がない以上本当にはっきりしないのですが、桶狭間の合戦は状況証拠からしてそれまでのイメージとは真逆の展開だった可能性が高いみたいです。
劣勢を大将を討ち取って覆す劇的な勝利展開は日本史上まれに見る快挙であるからどうしても尾ひれがついてしまうのは仕方ないんですけどね。
(同様の例としては毛利元就の初陣の有田中井手合戦・北条氏康の川越夜戦くらいではないかと。)



ただはっきりしてるのはこの合戦が信長の天下統一事業のスタート地点ではないということ。
実際尾張勢は交通要所の為に経済感覚は優れていても腕っぷしの弱い弱小兵だったとのことであり、桶狭間合戦の翌年から7年かけて攻略した美濃の精強で知られた兵力を掌握したことによって初めて「天下布武」をスローガン天下統一事業を始めることになるのです。
いずれにしろ桶狭間が信長の人生における最初のハイライトには違いないとは思いますけどね。

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2017/05/21 11:14
侑樹様へ…450年以上前の話ですからね。後の権力者によって改竄されたり面白おかしく書き立てた創作作品の普及で実像がわからなくなってる事件が桶狭間に限らず非常に多いみたいです。
同じ戦国合戦の中でも毛利元就の厳島合戦については毛利軍の主導自体が怪しまれている有様です。
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2017/05/21 11:04
妖刀 さゆき様へ…手早く「われこそは織田家家臣・毛利新助!いざ尋常に勝負!」くらいのことは言ったでしょうが、平安鎌倉期のように歴代の先祖をダラダラ並び立てるような真似はしないでしょうね。
実際元寇の時は異国のモンゴル相手に名乗りをやって終わらないうちに討ち取られたおバカさんが多数いるらしいですからね。
なお毛利新助は桶狭間で義元を討ち取った武将です。
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2017/05/20 19:47
色々とわからないことが多かったんですね!
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2017/05/20 19:15
やぁーやぁー我こそはー
って名乗っていたんですかね。




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