Nicotto Town


つくしのつれづれノート


想像以上にすさまじい長篠合戦


今日6月29日は織田信長VS武田勝頼の長篠合戦が行われた日なんです。

1575年6月29日(旧暦は天正3年5月21日)に行われたこの合戦は
日本史上初めて鉄砲が大量使用された大事件として
学校で必ず習う誰もが知る事だと思います。
なにせ戦国時代に海外から伝わった火縄銃は甲冑や築城方法をはじめとするそれまでの日本の文化を根底から覆して時代を中世から近世に瞬く間に塗り替えてしまったのです。
長篠合戦による鉄砲大量使用は歴史が大きく動くまさにその瞬間だったのです。




とりあえず能書きはこれまでにしてまずは長篠合戦の概要
きっかけは武田勝頼が三河国境の徳川方の城・長篠城を攻めたところから始まります。
戦国大名今川氏滅亡後、徳川家康は武田信玄の西上作戦で攻め込まれ、勢力下だった三河・遠江の半分が侵食された上に家康自身も三方ヶ原合戦で大敗を喫すなどまさに風前の灯火でした。
しかし西上作戦の最中に信玄が死去。それを機に家康は失地回復のため攻勢に転じ、その過程で一度は西上作戦で武田に寝返りながらも再び家康の元に戻ってきた家臣が長篠城主・奥平信昌(当時は奥平貞昌。後の江戸幕府の有力譜代大名。)だったわけです。
奥平信昌の武田離反に信玄の後を継いだ勝頼は激怒、約1万5千(通説)の軍勢を率いて信昌の居城・長篠城に攻めてきたわけです。
これに対して兵力8千の家康は盟友・織田信長の援軍を要請、
信長は3万の援軍を率いて駆けつけます。
そして織田徳川連合軍は長篠城一歩手前の平原地帯・設楽原に布陣して武田軍とにらみ合います。
その数
織田徳川連合軍3万8千VS武田1万5千‼


この時点でいくら戦国最強と言われた武田軍でも多勢に無勢状態であり、山県政景や馬場信春等信玄以来の武田家の重臣から撤退の主張が飛び交ったのですが、撤兵してもいずれさらに強大になった信長と対決せねばならなくなるのは必定だったため勝頼は重臣の意見をはねのけて織田徳川連合軍との決戦を決意します。

信長としては兵数の上で勝ったも同然であり、今後時間が流れるほどに武田に対してさらに有利になるのでいたずらに白兵戦で損害を被るのは面白くない…
そこで陣地を築いて大量の鉄砲を動員するわけです…

何もしないでも勝てる信長はそれでいいかもしれないが、領国の半分をかすめ取られて風前の灯火状態の家康としてはたまったもんじゃない。
この戦いで武田を再起不能にするまで叩きのめさねば失地回復は叶わない…
そこで徳川勢は鳶ヶ巣山攻防戦など長篠の合戦の前哨戦となる小競り合いを積極的に戦い(小競り合い散っても数銭の軍勢がぶつかり合った大規模なモノであり、勝頼の叔父(信玄の弟)・川窪信実や重臣・高坂弾正の嫡男など武田方の有力諸将が討ち取られている。)、是が非でも武田軍との決戦に持ち込もうと奮闘します。


…それぞれの思惑が交錯する中で迎えた6月29日、
鳶ヶ巣山攻武田勢防戦の敗走に連動して設楽原の武田軍本隊は織田徳川連合軍の陣地に攻撃を開始。
長篠の合戦の火蓋が切って落とされます。


戦況は突撃してくる武田勢を織田徳川連合軍は馬防柵で固めた陣地から大量の鉄砲を動員してこれを迎え討ち、結果として大量の犠牲者を出して武田軍は敗走。
譜代家老の内藤正秀、馬場信春、山県政景などをはじめ原昌胤、原盛胤、真田信綱・正輝兄弟(真田昌幸の兄達)、土屋昌続など武田家を支えてきた重臣の大半が討ち死にするという大敗を喫してしまいます。
ここを境に徳川家康は起死回生を果たして躍進、対する武田家は滅亡への道を歩むことになります…






…でちょっと長かった概要ですがここからが本題
実際の長篠合戦がどんな感じだったのかの検証してみたいと思います。
ぶっちゃけ言ってしまうと有名な三千丁の鉄砲や三段撃ちは後世でっち上げられたものらしいのです。
まず鉄砲の数
信長研究の一級資料である太田牛一「信長公記」の長篠合戦において前哨戦の別動隊が500丁・本戦の本隊に1000丁の鉄砲と書かれており、この「信長公記」の有力写本の千丁の記述の脇に三の文字が書き足されており、
ここから三千丁や三段撃ちと拡大解釈された可能性があるらしいのです。
しかも明確になってる上記の計1500丁の鉄砲自体も筆者太田牛一が知り得た最低限の数ということであり、長篠の合戦全体で動員された鉄砲の正確な数を把握していないとのこと。信長は長篠合戦に参加しなかった武将からも鉄砲隊を供出させており、
もし信長が総力を上げて鉄砲を用意したら三千丁をはるかに超える数を用意できるらしいです。
(しかもこれは織田軍のみに限定した総数であり、徳川軍の鉄砲を含めるとその数はさらに増えることになります。)
三段撃ちも実際再現実験した結果不可能との見解が出ており、長篠合戦の実像は一般に知られているものと大分異なるようです。



まあ、例え鉄砲が1000丁で三段撃ちをしなくてもこれを一遍に使ったらすさまじい威力なわけですが、
この威力をさらに凄惨なレベルに引き上げたのが鉄砲隊を守る馬防柵

しかも大河ドラマで出てくるような武田の騎馬を防ぐためのただの柵というような生易しいものではなく、
馬防柵の後ろに銃眼(城の狭間やトーチカなど壁から鉄砲を繰り出す穴)付き土塁を三重に設け、しかも馬防柵の前に急斜面を作って柵の後ろがわからなくなっている(しかも本戦時霧で武田側からは織田徳川軍の陣地の様子がさらにわからなくなっていたらしい…)という本格的な野戦築城であり、
日露戦争の旅順要塞や第一次世界大戦の塹壕戦のような凄惨な光景が広がっていたみたいです。
(日露戦争の旅順戦では数万・第一次世界大戦の塹壕戦では数百万の死傷者を出している。)
違いは塹壕戦の鉄条網が馬防柵だったということくらいかと…
そのような有様だったので三段撃ちが無くても突撃してくる武田軍を薙ぎ払うのはたやすいことだったんじゃないでしょうか…



さらに恐ろしいことに武田家中において当主・武田勝頼は叔父・武田信廉(信玄の弟で信玄の影武者として有名)や穴山信君(穴山梅雪。勝頼の従弟。武田家滅亡織田・徳川方に寝返る)などの親類衆との折り合いが悪く、
長篠合戦の凄惨な戦況の最中に
戦線の中央を任された彼らが敵前逃亡同然に戦線離脱してしまったことで総崩れになり、
戦線の左右両翼に展開していた山県政景・馬場信春・真田兄弟ら武田の最有力家臣が悉く戦死してしまうことになります。

長篠合戦の武田の犠牲者数は数千から1万とすさまじい数といわれるんですが、それ以上に致命的だったのは勝頼が合戦以前から家中を掌握しきれていなかった上にそれまで戦国大名武田家を支えてきた中枢を担う有力家臣を長篠合戦で一遍に失ったことで組織の指揮系統がズタズタになったことであり、
ここから武田家は空中分解するかのように急激に衰退、長篠合戦から7年後の1582年に織田信長によって武田家は滅亡します。これは武田信玄の死からわずか9年後のことでした。





以上で長篠合戦の記事を終えますが、この合戦は戦国大名の興亡だけでなく上記の通り日本の文化を一気に塗り替えた大事件であり、調べたらまだまだ画期的な発見があるように思われます。

アバター
2017/07/01 07:21
西湘国府津様へ…私ミカサもGWに長篠城へ行ったのですが長篠合戦のイメージとはかけ離れた山奥に城跡があったので改めて驚きました。合戦が行われたのが設楽原の平原なんだから長篠の合戦といわずに設楽原の戦いと言った方がしっくりくるんですけどね
アバター
2017/07/01 00:08
長篠…

だいぶ前に愛知県豊橋から南信・木曽を巡って名古屋まで行くということをしたことがありました。
豊橋から長野県境への道中、長篠を通るので古戦場か資料館に立ち寄ろうとし、近くまで行って案内標識に従って走ることに。
だんだん人里を離れ、山の中に・・・
行けども行けども出て来ず、気がついたら隣の自治体まで来てしまったので諦めた覚えがありますw
アバター
2017/06/30 21:38
いちにぃ~様へ…火縄銃などの先込め銃(幕末に使われたものも含めて)銃身が焼けると次弾装填ができなくなるのでドラマのような連射は無理があるみたいですね。
とはいえ大量の鉄砲で一斉射撃されたら三段撃ちじゃなくてもすさまじい被害が出るので、実像の馬防柵を用意してたら例え鉄砲が無くても弓隊の連射だけで同様の被害を与えられそうな気がします。
アバター
2017/06/30 21:34
とり合絵図様へ…後世尾ひれがつきまくっている合戦なので使用された鉄砲の数はもっと少なかった可能性は大いにあります。
なにせ通説の武田方の犠牲者数があまりにも多すぎるので…(正直異常なまでに戦死率の高い川中島合戦を上回るレベルなわけで…)
実際山県昌景・馬場信春など宿老の多くは総崩れの後の追撃戦で戦死しており、おそらく犠牲者の多くは鉄砲の一斉射撃ではなく武田の親類敵前逃亡で総崩れになった後で続出した可能性も十分にあり得ます。

いずれにしろこの合戦で武田の重臣が大量に討ち取られている為、
たとえ規模が小さく戦死者が少なくてもとも武田軍の指揮系統は完全に粉砕されるという致命傷を負った全滅という評価は変わらないと思いますよ。
(軍事学的に全滅とは部隊損耗率40%以上もしくは指揮系統の破壊による軍組織の崩壊を指しますから…)
アバター
2017/06/30 20:04
大河ドラマやゲームで戦国好きになった者としては、三段撃ちが嘘ってのはもう
えー って感じ
アバター
2017/06/30 19:44
真田丸は長篠の戦いの要塞を大阪城で再現したのではないか?という。
これは誰かの説かどこかで読んだか忘れましたが、そういう気はとてもします。

ところで、最近ネットで読んだ説では、長葭の戦いのような大規模な戦はなかったという説があります。
というのは長篠後で発掘された鉄砲の玉があまりに少ないとうことだそうです。
実質家康が武田家を滅ぼしたのを無効にしたいがために、秀吉の作った作り話という説です。

これは少しロマンぶち壊しですが、面白い説ではあります。




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.