Nicotto Town


つくしのつれづれノート


鎌倉~徳島原付横断 お城攻略

紀伊半島横断をメインにした今回の旅行の目的もやはりお城めぐり。

機内のお城についてはこれまで滋賀・京都・大阪などは自転車による関ヶ原越えで何度も攻略してきた過去があるのですが、三重・奈良・和歌山を中心にする紀伊半島となると山の険しさのイメージが付きまとってそれまで手が出せなかったわけです。
しかし畿内こそ日本のお城の進化の最先端を歩んだ重要地域であり、今回の原付旅行ではその歴史的・建築学的に重要な城としてランクインされた紀伊半島の100名城を中心に全部で8つのお城をめぐることになりました。
それが以下の如し。



日本100名城
松坂城(三重県)…安土城築城に携わった武将・蒲生氏郷による築城で(先月行った会津若松城も蒲生氏郷によって戦国城郭から近世城郭に仕立てられたもの、)兎にも角にも石垣の詰み方が見事で素人から見ても半端ない。研究者によると信長・秀吉時代の典型的な近世城郭の絶対年代の指標となるべき重要な歴史史跡らしい。
江戸時代になって徳川御三家紀州藩の治める城となり城代を置いた陣屋として明治維新まで機能していたとのこと。

伊賀上野城(三重県)…元は要塞化された寺院であり、本能寺の変後筒井定次(「時をかける少女」で有名な作家筒井康隆のご先祖様)・藤堂高虎が近世城郭に改修。対豊臣のとして大改修したものの途中で大阪の役によって豊臣氏が滅亡し城は未完成のまま江戸時代を過ごしたとか…
天守閣は建築中に台風で倒壊し以後江戸時代には存在しなかったが、昭和初期に「伊勢文化産業城」の名前で五層天守だった石垣の上に三層木造伝統工法の模擬天守が再建されさた。
この城は黒澤明の「影武者」(80)の合戦ロケで使われるほど本丸の高石垣がすさまじいのだが、現在堀の外側が森のように木が生い茂っているため城の凄さというのが今一つ伝わってこなかったのが残念だった。

高取城(奈良県)…標高580mの山頂に天守や無数の二重・三重櫓が連なる大規模な山城であり幕末の攘夷志士による天誅組の変の戦場となったことで知られる。
とにかく天下泰平の江戸時代においてはありあえないレベルの峻険な山城であり(天守が現存する備中松山城を凌駕する)、藩主は麓の城下町の御殿で政務をとっていたと思われるが2万5千石の小藩に過ぎない高取藩が江戸時代通じてこの巨大な山城を維持したということが(3代将軍徳川家光のお墨付きをもらったからこそ維持てきたというが)本当に信じられない。

千早城(大阪府)…いわずと知れた楠木正成の山城であり攻め寄せる数万の鎌倉幕府軍を翻弄させて滅亡へ追いやった天下の名城として知られる。
今回奈良県側から金剛山麓の千早城に向かったのだが国道24号線から千早城に向かう道のりが20キロにも満たない短距離にも関わらずすさまじい山道を登ってやっとたどり着くというまさに秘境で大軍であればあるほど軍勢がたどり着くのが厳しい場所。
しかも千早城は周辺に同様の山城をいくつも抱えて連携してる上に修験者を通じて補給も行われたらしく、そんなところを力攻めすること自体がムリだと思う。(場所が場所だけに大軍であればあるほど無理だったのではなかろうか…)
記録によると南北朝が統一される1392年に室町幕府軍によって陥落しているが、それは支援する味方がすべて制圧された丸裸状態だったものと推測される。

和歌山城(和歌山県)…徳川御三家・紀州徳川家の居城で8代将軍徳川吉宗もこの城の出身。現存してる城の区域からしてもかなり巨大なのだがこれでも最盛期の1/4ということであり、あまりにも巨大であるため城を拡張した初代徳川頼宣が幕府から謀反を疑われるという逸話を持つ。(実際に由井正雪の反乱未遂事件の際に10年間江戸に軟禁状態なったことで城の拡張はストップしたとか…)
天守閣は維新後も国宝として現存していたのだが戦時中の空襲で焼失(大阪城本丸の旧陸軍施設として移築された二の丸御殿も終戦直後の失火で焼失)、鉄筋コンクリートで再建され今に至る。

徳島城(徳島県)…秀吉の側近であった蜂須賀小六の嫡男家正が築いた阿波徳島の府城。(交渉術に長け竹中半兵衛や黒田官兵衛に先駆けた軍師として活躍した父小六は秀吉の側近であることにこだわり続けて栄達は固辞していたらしい。)当初は眉山の頂上に城を築くつもりだったともいわれる。
明治維新まで蜂須賀氏による統治が続いた徳島城だが(ただし途中で徳川将軍家から養子が入っている。)、維新後城の建物は悉く取り壊され、今は20年以上前に復元された門が一つのみだが、城跡の保存状態は非常に良好。(城跡だけ見れば櫓が多数残る高松城と比べても天と地の差があるほどの圧倒的保存状態)
幕府に遠慮して城山中腹の二の丸にパッとしない三重の天守(相当の御三階櫓)があったそうだが、それ以上に徳島駅真正面の城山麓の三の丸大手門付近に天守よりも立派な三重・二重の櫓が構えられていたとのことであり、それを見た幕府隠密がそれを天守と勘違いした逸話もあるとのこと。(徳島城内にある博物館内にある徳島城の精密模型を見ればそれも頷ける)
なぜかその付近の石垣の上に日露戦争後に建造された駆逐艦のマスト(初代神風型駆逐艦・追風)がモニュメントとして立っているのが非常に気になるところ…
ちなみに徳島城のお堀は海から水を引いてる為かタイやボラがコイの代わりに悠々と泳いでいましたww



その他
浜松城(静岡県)…岡崎城に続く徳川家康の居城。江戸時代しばしば城主が入れ替わり、浜松城主を経て幕府の中枢に上り詰めるケースが多かったことから出世城と呼ばれる。現在は都市化と共に天守曲輪周辺の石垣を除き跡形もない有様なのだが、近年天守曲輪を中心に復元整備が活発に進められている。

津城(三重県)…藤堂高虎を初代とする津藩藤堂家32万石の居城。津藩は他に上記の伊賀上野城も持っており当初は伊賀上野城がメインだったとのことだが、豊臣家の滅亡で交通の要所にあった津城が本城になったらしい。津が伊勢神宮に至る宿場町だったこともあり「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と謳われるほどの繁栄ぶりだったという。
現状は本丸が残る程度であり三重櫓が再建されている。

ニセ安土城(三重県)…これは伊勢市にあるテーマパーク・伊勢安土桃山文化村(去年から伊勢安土桃山城下町に改名)のシンボルタワーであり、数ある安土城天守閣復元案(西ヶ谷恭弘案)の1つを再現したものなので決していい加減なものではないらしい。(ちなみに本物の安土城跡には確実な天守図面が見つからない限り法律により再建は不可能らしい。)入場料金が高いので行かなかったが外の公道からも天守の最上階がはっきりと見える。何でも500万円で天守閣に宿泊できる予定だとか…




こんな感じです。
これで100名城は初代スタンプ帳が47・二代目が34集まり、初代に限っていえば岩手から徳島までの太平洋沿岸に面した城を完全制覇したことになります。

一方続100名城は浜松城・津城に行ったもののスタンプはゲットできず…(津城に至っては続100名城と知らずに写真撮って素通り。)
100名城に比べると続100名城は完全に余興状態になっています…

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2018/09/23 22:00
りす。様へ…コメントありがとうございます(^_^)最近ニコッとの方に余力が向けられない中でコメントして下さり感謝に堪えません。
聞くところによるとスマホアプリなんかでお城に行ってスタンプ帳みたいなことができる奴があるらしく、規模の100名城・続100名城よりもでかいと聞きます。
私ミカサなんかはステレオタイプな観光地堪能の口実としてお城めぐりをしてるところがありますが、近隣の気になる城跡なんかはそういう余興を利用して楽しみたいという気持ちもあります。
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2018/09/20 10:31
近畿のお城、松阪城や津城も原付訪問されたのですね。
外観なき古城でも城めぐり旅行客向けにスタンプ押せたり、
できればいいのにね〜。





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