Nicotto Town


つくしのつれづれノート


略奪者・上杉謙信

前回のつづき
上杉謙信の遠征理由について。
今回の原付旅行では鎌倉から新潟入りするのに最も安易と思われる国道18号線で長野からの上越入りを選択したわけですが、それでも妙高高原の高低差と気温差はかなりのものがあり、舗装もされてない戦国時代の道では万を超える軍勢を敵地の信濃へ送り込むのは並大抵のことではないと思います。(有名な第4次川中島合戦時の上杉軍が1万3千とのこと)
関東については反り立つ壁の如く越後山脈(もしくは三国山脈)によって隔てられているためその困難さは信濃の比ではなく、
個人的には異世界を行き来するレベルと錯覚するほどです。
冬になれば共に雪で閉ざされて軍勢の行き来は事実上不可能と言えます。
最初の関東遠征時、長尾景虎を名乗ってた上杉謙信は戦国北条氏に追われて越後に逃れた関東管領・上杉憲政の後ろ盾を元に攻め上るや瞬く間に関東管領上杉氏の影響力が強かった北関東の武将たちを味方につけて関東を席捲し、北条氏の本拠・小田原城を包囲し同時に鎌倉で上杉家の家督と関東管領職を継承するなどまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったのですがその最初の遠征すらとても征服目的には見えない程に粗が目立つといわれており、
謙信のが本拠の越後に戻ってしまうと山脈を隔ててるが故ににめったに関東に来ることができないのを見越した北条を筆頭とする反上杉勢力が息を吹き返してそのイタチごっこが延々と続くわけで、最初はともかく何度も関東に攻め上ればバカでもわかるはずです。
結果として謙信の生涯の関東の確実な勢力範囲は現群馬県である上野北部の人気の少ない山岳地域のみという印象があります。まともな集落もない僻地故に誰も見向きもされず関東軍を送り込むのに支障がない程度の勢力だったのではと…
(なお北信濃の方も武田信玄の勢力下になり、謙信死後の武田滅亡で路頭に迷った信濃の武将を向かい入れることで初めて掌握に成功するわけで…)
私ミカサは三国峠から新潟入りした経験はありませんが原付自転車で群馬長野の山岳地帯を行き来した印象からしても
謙信が本気で関東平定をするつもりがあるのなら本拠地越後を捨てて関東に移転する以外方法がないと思っています。
そういう行き来しづらいにもかかわらず上杉謙信は何と17回も関東へ攻め込んでいるわけです。

その為上杉謙信の関東遠征はよく言われる戦国以前の秩序を取り戻す義のためだとか戦国大名らしい征服による領地の切り取りではなく、
農閑期の糊口をしのぐ為の乱捕りという名の略奪が目的という印象がどうしても強くなります。
これは各方面でよく指摘されることではありますが…
戦国時代当時は小氷期や火山活動等の寒冷化による飢饉が慢性化しており、農閑期の糊口をしのぐために収穫期を狙って領国外へ出兵して乱捕りと呼ばれる略奪が全国的に横行してたとのこと。(当然敵地での奴隷狩りも横行し、合戦直後にが奴隷の値段が一気に暴落したという話もよく聞く。)
今でこそ新潟はコシヒカリを生んだ日本有数のコメ所として有名ですがそれは江戸以降の田園開発と近代の品種改良の賜物であり、現代とはかけ離れた不毛の土地だった戦国時代の越後で生まれ育った上杉謙信にとっては他の地域以上に死活問題だったとは思われます。そんな中で関東の北条氏や信濃での武田氏台頭で追いやられていく旧勢力からの救援要請なんかはまさに敵地での略奪をするには渡りに船だし、関東管領職の継承はまさに敵地での略奪の為の大義名分そのものって感じに見えます。(なお関東管領職の継承については上杉家の分家が代々守護を務めた越後の支配を確立するために不可欠だったという見方もある)


この上杉謙信は内政面において衣料原料の青苧という作物の製品を主力商品に販売ルートの構築・領内の物流の管理統制を行うなどの経済政策によって莫大な利益を上げていたとのことで、
戦国大名って領国支配の強化のため経済支配も怠りない印象がありますが少なくとも信長台頭以前にここまで経済振興に積極的なのは尋常でない印象があり、泰平の世の増えない領地の中で新田開発や産業奨励によって領国を維持していた江戸大名に通じるものを感じます。(絹製品の米沢紬によって破産倒産寸前の米沢藩を救った上杉鷹山なんかは内政面の謙信の再来っぽくも感じる。)
それでも生じる食い扶持の不足分を外征による乱捕りで補おうとしてたのではという考えもできると思います。
専門家に言わせれば略奪目的の関東出兵を行った謙信は食うものに困った庶民においてはベンチャービジネスを企画実行した救い主となるということなんですけど、責められる側の関東の人間からしたらこれ以上迷惑なことはありませんね。(まさに悪魔と罵られてもしょうがない)
その一方で権威にめっぽう弱い八方美人ゆえに周囲からの救援要請にホイホイ乗ったという身もふたもない説もあったりしますが…


ただ義の為にしても略奪目的のいずれにしろ結局は誰にでもわかる目に見える成果があるとは言い難い外征になるため(結果的に関東も北信濃も目に見える成果が少ない)、
中間支配層にあたる謙信配下の中小領主からしてみれば領地も増えない外征は手伝い戦の徒労と感じる人間も少なからずいたのではと思ってしまいます。
上杉謙信って武田信玄に相対する強大な戦国大名とはよく言われますが、
「人は城 人は石垣…」で有名な一枚岩の団結力でことを進める信玄に比べて謙信ひとりのずば抜けた才覚でもって采配を振るってる反面(内政面は上記の如く、軍事については武田北条双方が正面衝突を嫌がって城に引き籠る程に野戦で謙信の采配の右に出るものはなかったらしい。)
家臣の人心掌握が下手な印象があります。
一応一国を切り盛りする戦国の名君としての家臣への配慮の逸話もあるんですが、大河ドラマでもネタになる出家騒動を起こして家臣の団結を計ったという逸話や、最初の関東出兵時に家柄の事情を弁えずに忍城の成田氏を辱めて一揆に関東の反上杉感情を炎上させた逸話(史実でないとも)など、粗が目立つ印象があります。
才能が高く先走りする人物によくありがちな
「王は人の心が分からない」(この言葉自体はアニメにもなった「Fate/Zero」が元ネタw)
というのを地で行く人物だったのかもしれません。




なお5回にも及ぶ川中島合戦の後上杉謙信は武田との正面衝突を避け、北陸方面の進出を積極的に進め越中・能登を平定するなど戦国大名として着実に目に見える成果を上げており、上杉謙信が理想と現実の妥協できる人物に成長してる印象があります。(この北陸遠征も次第に対信長包囲網のための布石として領国切り取りとは性格が異なるという意見もありますが…)
上杉謙信は手取川の合戦で柴田勝家率いる倍の数の織田軍を潰走させた1577年の暮れに大酒飲みが祟った脳溢血で急死し以後上杉家は流転することになるのですが、
もし謙信がもう少し長生きしていれば国の切り盛りの仕方がどのように変化していたか非常に気になるところではあります。
(さすがに強烈なファンが口々に言う「天下を取っていた」の豪語はさすがに同意しませんが…)

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2018/10/26 01:46
saki様へ…信長とはベクトルが違うかもしれませんが謙信の産業興す能力なんかは明らかに50~100年先の江戸大名の必須政策の先駆けともいえるものであるため、この戦国乱世の時世にこんな100年先取りしたような人物を理解できた人間がどれだけいたかことかって感じです。(関ヶ原後、加藤清正(正確には息子)を筆頭に群雄割拠の戦国武将から経済振興で国を維持する江戸大名への転換ができずに取り潰された大名が非常に多い。)
そういうのを見ても謙信は個人能力が超越しすぎたワンマン社長として使える側はしんどそうだなとも思います。

逆に信玄の方は家臣の掌握力に優れ「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」の歌の通り一枚岩の団結力による強さを誇った印象ですね。
この人登城勤務には現在のフレックスタイムやタイムカードに相当する制度を設け、戦で戦功をあげた物に即座に報いるため常に戦場に桃太郎さながらの金銀財宝を積んだ荷車を用意して現物支給できるようにしてた臨時ボーナスとか、組織の末端まで手足のように動かすための人心掌握術が半端ない逸話が沢山ありますよね。(それだけ家臣の掌握に苦労を重ねて編み出した技なのでしょうね)
この掌握術の為に私ミカサは信玄を戦国の「松下幸之助」に例えています。

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2018/10/25 23:52
ふうむ…
謙信はちょっと独特なイメージがあります。
頭は良かったんでしょうが、信玄びいきの私としては、
どうも冷たい印象があるんですよね。
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2018/10/25 17:10
ゆりか様へ…少数の関東入りならたやすいことでしょうが数千数万の大軍を山越えして関東入りさせるのは本当に異世界行きレベルだと思いますよwww
謙信は野戦意外に関東の数々の堅城を攻め落としたオールマイティで戦国最強クラスの指揮官であり、その才覚でもって関東で越年して攻めたり冬場の関東攻めを強行した例もあるみたいですが、そんな大変な行軍で上杉憎しで燃え上がる関東を長丁場でしらみつぶしに攻めるなんて不可能であり(秀吉の小田原征伐でさえ20万を超える大軍を使ってでさえ強行策と懐柔策を使い分けながら平定してるわけで)、次々と田畑を喰荒らして移動するバッタの大軍の印象に近いやり方は、平定征服の為の遠征とはかけ離れているように感じます。(通常征服地での略奪はヘイトを稼いで統治を不可能にするタブーであり最悪源平の木曽義仲のような末路をたどりかねない為、自軍の将兵による略奪は処刑ものの重罪なんですよね。信長なんか制圧した京で女性に乱暴しようとした足軽の首をその場で刎ねてますし…)
恐らく兵農分離ができてない軍勢であるために大規模遠征で末端の不満の増大を防ぐため略奪をしなければならないという側面もあると思います。奴隷なんかは海外へ売り飛ばしたなんて話も聞いたことがあります。

ただこういった数々の遠征は略奪目的のためだけではなく、「義」の人と言われる所以の救援を求めてきた連中と謙信側との様々な利害が一致したうえでの複合的な理由であの大遠征を繰り返してると絶対に思います。冷徹であったとしてもそういう様々なメリットをがあると判断して実行するのが政治家のあるべき姿だとも思うのです。
それだけにもしヘイトを稼がずに関東を平定することができたら武田や北条などよりもでかいことができたかもしれませんね。なかなか難しい事ではあるのですが…

ちなみに今の自分たちが考える「天下を取る」ということは信長の事績見聞きした後の武将でなければ無理な発想だと思いますよ。一応信長以前に堺幕府と揶揄される三好政権のような中央政権の発芽みたいなものはありますが、それ以前の「天下を取る」という概念は管領のような将軍の補佐として天下を再拝するというものだったろうから幕府をに成り代わろうとする発想はあり得なかったと思います。(事実信長は足利義昭の追放に相当てこずってますからね。)
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2018/10/25 12:07
みかささん、こんにちは。
異世界行き来レベルの行軍をした上杉軍!半端ないですねー。
当時の上杉軍は兵農分離もされてないし、冬は雪で閉ざされてしまっては戦える期間がだいぶ限られそうですね。実際に小田原城を包囲できたのは10日間くらいだったとか…北条氏康もそれを見越して大人しく籠城してやり過ごそうとしたのでしょうか。
謙信が関東遠征したのは、関東管領を引き継いだ職務を全うしようとする「義」の面もあったかと思いますが、やってることをよく見ると、みかささんが言うような冷徹な側面もあったのだろうなと私も思います。
奴隷の価格大暴落は実際にあったようで、九州征伐の頃の史料になりますが、飢饉が酷い肥後では、奴隷を買って養うことすらままならないため、長崎まで運んで二束三文で売った…とありましたね。世知辛い(T_T)
謙信は、直江津や柏崎などの良港を有してたので、金山が枯渇してしまう武田家などに比べると経済的には恵まれた立地でしたが、やっぱり飢饉の時は大変だったのかなぁ。
謙信の行動を見ると、室町幕府の権威の回復を望んでたのでは?と思うので、私も長生きしても天下を取るのは難しかっただろうと思います。でもみかささんのおっしゃるように、理想と現実の妥協できる人物に成長して90才くらいまで長生きしちゃってたらどうなるのかな?と考えると、ちょっとわくわくしちゃいますね(^^♪
上杉謙信についてあれこれ考えさせてくれる記事で面白かったです。
楽しい時間をありがとうございました(*^^*)




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