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つくしのつれづれノート


関ヶ原ルート お城攻略 前編

1月前半に行った京都~犬山の関ヶ原ルートの旅。今回もこれ前の例にもれずお城巡りだったのですが、今回は2日の現地滞在期間に廻ったお城の数が9つに上り(それとは別に5以上の博物館・寺社仏閣を巡ってるわけで…)、空前の過密スケジュールとなりました。
距離にして170キロ程度で当初自転車での攻略を考えてたんですがこれだけの過密スケジュールだとさすがに無理があるなと改めて思い知らされます。さすがに旅から2週間経過して体力的には回復しているのですが未だに精神的な消耗が尾を引いてる感じです。は(あの最終日の凍死寸前のピンチがトラウマになってるわけで…)



とりあえずこれ以上御託を並べず今回巡ったお城の解説です。

二条城(京都府)…100名城にして世界遺産「古都京都の文化財」のひとつ。
幕末最後の将軍徳川慶喜が大政奉還をやった場所として有名なわけですが、徳川家康が征夷大将軍に任命された場所でもあるという
まさに江戸幕府の誕生と終焉の舞台となった城なのだ。
二条城は天下人が号令を発する都における政治拠点であり関ヶ原以前も様々な二条城・それに相当する施設が京都に存在したのだが(六波羅探題や聚楽第など)、現存の二条城は関ヶ原戦役後家康が上洛時の宿舎として築城した四角い本丸オンリーの城だったのが、3代将軍家光(大御所秀忠)の時に天皇行幸に合わせて大拡張されゴージャスなお城に様変わり。(拡張工事中新旧天守が二基並ぶ光景が展開されていたとか。旧天守は淀城に移築された。新天守は18世紀中ごろに落雷で焼失)
ところがイベントが終わると一気に荒廃し幕末の動乱までの230年間忘れられた存在として放置状態だったとか…
今回二条城の目玉である二の丸御殿は閉鎖されて入れませんでした。ただ大政奉還の舞台になった二の丸御殿を堪能してたら間違いなく過密スケジュールが崩壊していたので内心ほっとしていたわけで…
本丸では長らく立ち入り禁止となっている旧桂宮邸が耐震工事の真っ最中であり内部公開の再開門近いやもしれません。


安土城(滋賀県)…100名城。織田信長の居城であり、石垣と天守閣(安土城のは天主)を備えたの近世城郭の基礎となったエポックメイキング的存在として日本城郭史上最も重要視される城。
壮大な天守と石垣を備えた大城郭でありながら防御策が乏しく、信長が要塞よりも権威を見せつける政治拠点として築城したことが伺える。
復元整備された城跡は中に入るのに700円取られるのだが、それでも大手門から続く屋敷群を脇に抱えた大階段は非常に見ごたえ抜群。(それでも城跡全体20%に過ぎず、城後全部を発掘整備するには50~100年かかるらしい…)
今回は城跡に入らず安土城郭資料館・安土城考古博物館・信長の館(92年のセビリア万博時に原寸大復元した安土城天主4階5階を移築展示)をの巡りました。
安土城関連のお土産としては織田信長の印章として有名な「天下布武」のゴム印がおススメ。


観音寺城(滋賀県)…100名城。安土城裏手の山にあった戦国大名六角氏の城。1000を超える郭を持ち信長台頭以前にその多くに膨大な石垣を備えた戦国屈指の大城郭(城山の規模は安土城より大規模)でありながら、城の防備は貧弱とされ(異説もある)郭の多くが居住施設を備えた集合団地や山上の造成地のような構造をしている極めて特異な城として知られる。
どうも六角氏の家臣団の統率が一筋縄でいかなかったらしく、彼らとの連合政権として領国を運営するための防御よりも政治色の強い城とのこと。
その為戦国時代何度も観音寺城を巡る攻城戦では敵に明け渡した後で奪還する戦略を繰り返していたらしい。
結局観音寺城は足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦の際に六角氏ごと粉砕され程なく廃城となった。
100名城スタンプは安土駅前の安土城郭資料館で安土城と一緒に手に入れることができます。


彦根城(滋賀県)…100名城。ご存知譜代大名筆頭・井伊家35万石の府城。関ヶ原後佐和山18万石に封じられた、井伊氏が長浜城や大津城など周辺の城の用材を流用して築城して佐和山城から移転した。主郭部が一塊に現存してる姫路城には及ばぬまでも天守をはじめとする数々の建築遺構と城跡が良好に残り、城下町も当時の面影をよく残しているなど町全体が博物館のような雰囲気を持つ。
今回10年ぶりに大津城から移築したという天守に登ったが階段は直角のはしご並みに急で生きた心地がしなかった。(この時点ですでに足を挫いてたこともあり)
二の丸御殿を外観復元した彦根城博物館にも行ったのだが彦根藩出身の日下部鳴鶴なる書道家の特別展の為井伊の赤備の武具一切が展示されておらず非常に残念だった。
なお井伊氏が当初入城した石田三成の佐和山城は彦根駅をはさんだ真向かいに存在する。(彦根城築城の際に徹底的に破壊されたことが発掘調査で判明している)城跡は城址公園として整備がされていない為、遭難の危険性もあり注意が必要。
駅から佐和山城址を眺めた際麓に閉鎖された日本屈指のZ級スポット佐和山遊園が未だ取り壊されずに現存してたことにビックリしました。
佐和山城及び佐和山遊園の記事についてかつて記事を書いてるのでよかったらどうぞ
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1032798&aid=45061758


長浜城(滋賀県)…浅井長政滅亡後に旧浅井領を任された羽柴秀吉が小谷城に代わる拠点として築城。
長浜の湖岸の浮島をベースに造成した水城なのだが関ヶ原後に彦根城築城の為に城の一切合切が資材として持っていかれたため現在城跡は跡形もなく、現在は城跡に再建されたか鉄筋コンクリートの天守があるのみ。ただ琵琶湖湖岸にあるため天守からの眺めは絶景であり、古い町並みもふくむ美しい光景の為私ミカサが移住したいほど好きな地域として度々訪れている。
また長浜城の城主には後の土佐藩主山内一豊がおり、山内夫婦を主役にした06年大河「功名が辻」以降、天守内では海洋堂による山内一豊(上川隆也)と千代(仲間由紀恵)のフィギュアストラップ・キーホルダーを販売している。今回は時間の都合で天守に登らなかったが上記のフィギュアが今も売ってるかどうかが非常に気になっている。
以前長浜に行った時の記事もあるのでうよかったらどうぞ。
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1032798&aid=44963635


小谷城(滋賀県)…100名城。戦国大名浅井氏の居城。浅井長政とその妻で織田信長の妹のお市の方の悲劇の舞台として有名であり、その知名度から戦国5大山城に数えられる。
山の尾根や谷を利用した細長い山城で主郭部の他に山奥の市場や向かいの谷ので丸などで構成した大変堅固な山城だったとのこと。後に浅井長政と対立した織田信長は周辺支城や味方の朝倉氏を滅ぼすなど丸裸にして小谷城を攻め落とすのに4年費やしている。
小谷城に行った時雪が降っておりスタンプのある麓の資料館まで行くだけでも相当苦労しました。寒さはとしてはなぜか雪が降ってない米原の方が圧倒的に寒かったわけで…






…ぜんぶ書いてるととても3000字に収まらないのでとりあえず後編に続きます。

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2019/01/28 21:37
とり合絵図様へ…「火天の城」は自分も見ました。建築構造的には吹き抜けがない方が正論だとは思うのですが、現状数ある安土城天主復元案の中では城跡の調査や文献と安土城のものではと言われる「天守指図」という平面図を元にした吹き抜けのある内藤昌の復元案(安土城関連資料館で展示されてる復元模型)が一番説得力があるように感じます。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-7f-12/spgunyu/folder/996775/43/19865843/img_1?1250219557

ただしそれさえも決定的な資料を基にしたとはいえないものであり(資料の解釈により復元の差は出ますし、資料自体が改竄もしくはニセモノの場合もありますから)、どの復元案も決定打にかける感じです。

聞くところによると信長は宣教師を通じてバチカンに安土城を描いた屏風を送ったとのことで、安土城研究者は今もバチカンの図書館で探し続けてるそうですが、数年前に秀吉時代の大阪城の屏風がオーストリアの城の壁画に直された状態で発見された例からしてもそのまま無事に現存してる可能性はゼロに近いと思われ、
安土城天主の正確な姿は永遠に謎なんじゃないかと思います。
その方がロマンがあって面白いと言えば面白いのでしょうが…
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2019/01/28 21:14
ゆりか様へ…二条城は武家政権の京都における政治拠点という位置づけなので各時代に二条城もしくは相当の施設があったとのことで信長と秀吉は事実上それぞれ二度二条城を築城してたりしてます。
二条城も含め今回の旅で言った城は大垣城以外何度も行ってる感じなのでそこまで隅々という執念はなかったのですがその反面関連施設をいくつも回ってより過密スケジュールになった感じでした…
これは反省しないとえらいことになりますね…

信長の戦略思想が「合戦の場は常に敵地で敵を領内に絶対に引き込まない」なので安土城に限らず岐阜城や小牧山城(安土城の構造の原点)をはじめとする信長の居城は守る城ではなく権威を見せつける政治拠点と常に一貫してるんですよね。観音寺城もそうですがそれぞれの事情に合わせた設計をしているため単に守るだけが城ではないということなんだと思います。

長浜城は城跡こそ破壊されて失われているのですが彦根城の天秤櫓や長浜旧市街の寺社仏閣に城門や御殿の一部などの移築された建築遺構が以外にも結構残っているとのことで驚きました。
彦根城に現存する三重櫓も小谷城にあったとされる天守を長浜城経由で移築を繰り返したんのと伝承されているとか…(度重なる修復過程で資材の大半が入れ替わって真偽不明だとか…)

ちなみに佐和山関連の記事の大半はZ級スポット佐和山遊園に関するものだったりします。
以前紹介した岐阜城登山記事・上記紹介の長浜記事と合わせすべて同一の旅行の記録だったりします。
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2019/01/28 20:10
そういえば、西田敏行主演「火天の城」という安土城築城物語を題材にした映画がありました。
(期待したほど面白い内容の映画でなかったですが、確かその映画の中だったと記憶)
安土城を巨大な吹き抜けを設けた構造にした為、
火が入るとあっというまに城全体が暖炉と煙突のような効果を作ってしまう恐れがあったとか。
(真偽は知りませんけれど)
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2019/01/28 16:19
こんにちは、みかささん。
楽しみにしていたお城レポートですね~♪わぁ凄いボリュームです(*^^*)

二条城にもそんな歴史があったのですね。
歴史の要所要所で出てきている感じでしたが、230年間も忘れ去られていたとは…。イベント特設会場みたいな感じ?
目玉の大政奉還舞台を見れずにほっとしちゃうなんて、もっとスケジュール緩めてください~;;

安土城は壮大なイメージですが、防御策に乏しかったのですか。
信長が自ら入城料を取っていたり、ライトアップとかもしていたり、テーマパーク的要素もあったかもしれませんね(苦笑)
城の発掘整備に100年?!そんな…生きているうちに全貌がわからず終いじゃないですか。
天下布武のゴム印欲しいですが、一体、どこで活用したら良いのでしょうw
観音寺城まで防備が貧弱なのですね。真の難攻不落の名城はどこなのやら。
六角氏は確か、信長以前の時代も、攻められては山中に逃げてゲリラ戦を展開してましたものね。

彦根城は私も、行ってみたい城トップ10に入ります。
佐和山城の材木も、いくつか転用されているんじゃなかったでしたっけ?
足を挫いている中の城攻略は大変でしたね;;
え。佐和山城跡は遭難の危険あり?!ただでさえ、方向音痴なのにどうしたら良いやら。ひとまず、みかささんの佐和山記事で満喫させて頂くことにしましょう。
後ほど、見させて貰いに行きます(^^♪

長浜城って、確か天正地震の時に全壊して、一豊の娘も亡くなるくらい被害が出てますよね。地震の後、どうなったのかわかりませんでしたが、彦根城に使える資材が残っていたとは驚きです。
彦根城に行けば、色々な城の名残が見れそうですね~。
小谷城も麓とはいえ寒い中、お疲れ様です。

楽しい城レポありがとうございました。
後編も楽しみにしていますね(*^-^)




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