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つくしのつれづれノート


関ヶ原ルート お城攻略 後編

関ヶ原ルートのお城解説の続きです

大垣城(岐阜県)…続100名城。関ヶ原本戦の西軍の本拠地であり、関ヶ原本戦の西軍敗走に伴う籠城戦と落城の体験談を綴った「おあん物語」の舞台として有名。
関ヶ原戦役後も交通の要所である関ヶ原を押さえる要として何重もの水堀で囲い沢山の櫓を備えた壮大な城郭だったのだが、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/gihu/oogakizu.jpg
http://blog-imgs-65.fc2.com/k/a/h/kahoo0516/20140330224645e11.jpg
戦時中の空襲によって天守が焼失した後本丸も含む大半の水堀が戦後の乱開発で埋め立てられてしまい、現在再建された天守や櫓門が住宅街の中に紛れ込んでいるという非常に水ぼらしい姿となっている。(ストリートビューで確認してみよう。)
お城を巡ってここまでガッカリしたのは未だかつてないと思う。オリジナルの天守が焼失してなければ史跡保存の意欲も高いままここまで徹底した城跡破壊にならなかっただろうと残念で仕方ない。
なお再建天守自体は鉄筋コンクリートながら焼失前のものを外観復元したものであり(近年の改修で余計な飾りが外れ最上階の窓が小さくなりよりオリジナルに準じた外観となった)内の展示はそれなりにしっかりしており、関ヶ原で使われた弓や槍や鉄砲のレプリカを手に持って楽しむことができます。


岐阜城(岐阜県)…100名城。織田信長の居城。
美濃攻めで戦国大名斎藤氏を滅ぼして奪った稲葉山城を岐山を拠点に成立した古代中国の周王朝の故事にちなんで岐阜城と名を改め「天下布武」のスローガンにした天下平定事業の拠点となった。
峻険な岩山に立つ山城だが防御は脆弱というのは以前にも記事にしているが
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1032798&aid=44962003
守る城というよりも信長の豪邸と政治拠点を兼ね備えた見せるための城という性格が強いとのことであり、ルイスフロイスの「日本史」では「地上の楽園」と絶賛される代物だったらしい。(ちなみに信長以前の稲葉山城は詰城だったらしい)
金華山山頂にある現在の天守は3代目であり本城の石垣は明治の2代目天守再建の際に石垣が改変され往時の面影はないが、元はエジプトの階段ピラミッドのような段々石垣の天守台の上に4層の天守が存在していたらしい。一説によるとこの山頂の天守は北京の皇帝が祭事を司る天壇(段々石垣と三重の塔)を模したものとも言われており、天下統一事業を推し進める信長の意欲の象徴とも言われている。(もっとも階段型の天守台は当時石垣を高く積み上げる技術をも織田勢が持ってなかったためともされる。)
この山頂の初代天守は関ヶ原後廃城になった際に麓に築城された加納城の御三階櫓として改変移築され、現在も御三階櫓の詳しい絵図が残るため安土城天主よりも具体的な姿が復元できるとのこと。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-7c-da/senapi93/folder/989363/74/29514574/img_13?1338390885
ちなみに天守は山頂の他に山麓の信長の邸宅に天守が存在し(こちらは天主表記)、山頂・山麓の天守も共に信長時代は居住施設だったらしい。
現在ロープウェーの駅周辺にあった山麓の信長の邸宅跡の発掘調査と整備が進行中。
ちなみに山頂の天守内では最近まで放送されていた重野なおき原作の「信長の忍び」0話がリピート再生されていましたw


犬山城(愛知県)…100名城。愛知県と岐阜県の県境にある小城。
元々あった小さな砦を織田信長の伯父信康が拡張し築城、江戸時代尾張藩の付家老成瀬氏の居城となった。景観が似てるということで「三国志」由来の白帝城の異名を持つ。
ちなみに成瀬氏は知行3,5万石なれどもあくまで幕府から派遣された尾張藩の家老であって大名でなく、犬山藩が存在したのは明治維新(1868)~廃藩置県(1871)の3年未満だったりする。
この城は15年前の2004年までに財団法人に移管されるまで成瀬氏の個人所有の城として知られている。(廃藩置県で県の所有となったものの1891年の濃尾地震の天守は損を機に修復の条件で県から無償譲渡された。)
犬山城の天守は現存最古の天守と言われ日本中で再建された三重の模擬天守の大半のデザインベースとなっている事で知られているのだが、解体修理によると天守造営当初は二重であり関ヶ原戦役後三重目の望楼が追加されたらしい。
最上階の高欄は外に出られるものの安全柵がないため結構危険。





…今回の旅は信長関連の城が多かったです。今回の旅の範囲が信長が活躍下中心地であるから当然のことですし、近世の石垣天守の城が信長に始まる織豊系城郭を源流に発展してるため、維新まで存続した全国の城のどれもが大小なりとも信長の影響を受けているのは当たり前のことなわけで…
私ミカサ自身は織田信長のファンというわけではないのですが、自らの才覚を以てして中世から近世の扉をこじ開けた張本人として日本史に与えた影響は絶大で無視できず、加えて私ミカサ自身が織田信長と誕生日が同じこともあって(5月12日。あくまで旧暦と西暦の違いはあれど誕生パーティーを催した信長は間違いなく自分の誕生日を5月12日と認識しているだろうと思う。)
他人事には思えずどうしても注目してしまいます。

それにしても今回の旅は精根尽き果てるほど消耗しました。
今現在またまとまった休日を消化してる最中なんですがさすがにこの寒さでは手も足も出ず、
悔しいですがお城や歴史の云々に関わらず近場の気になるところへ足を運ぼうと思います。
しばらくは負担をかけずにしばらく春を待ち無理をせず鋭気を養います。

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2019/01/30 22:15
とり合絵図様へ…戦国大名は自分の支配領域で起こったもめ事を仲裁する義務を持っている以上、領域内の宗教の保護取り締まりもしなければならない為専門のブレーンがいたにしても少なからず自身もある程度宗教知識はどの大名も持っていたはずだと思います。

信長の場合石山戦争や比叡山焼き討ちのような弾圧の他安土宗論をはじめとする宗教論争に介入する一方で敵対しない宗派の保護にも努めるなど乱世のやりたい放題の宗教に対する秩序構築に腐心してるためその、すべて天下平定の目的の元その都度必要に応じて必要な専門家を招聘して宗教政策を行っていたのではと思いますよ。(安土宗論の際も宗教論争の場を提供し審判役の南禅寺・建仁寺の構想を招聘しています。)
恐らく宣教師ルイス・フロイスとの交流と同じように常日頃から様々な宗教関係者と交流を持っていたはずです。

天下を平定してあらゆる混乱に秩序をもたらさなばならない為、信長は宗教に限らずあらゆるジャンルの物事に精通していなければならず、その為に様々な所から積極的に知識を取り寄せているはずであり、あまりにも膨大であるがゆえに個々の知識の仕入れ先が埋もれてわからなくなっているのではないでしょうか?

ちなみに信長は無神論者とよく言われてますが実際には寺社への戦勝祈願を度々行っており、熱田神宮や織田剣神社など一族にかかわりの深い神社の支援は積極的、おまけに「南無妙法蓮華経」の軍旗も使ってることから一定の信仰心は持っていたらしいです。
逆に信長が嫌ったのは不合理なまやかしや迷信による弊害だったとのことで、そういう本来あるべき秩序から逸脱したものへの弾圧が比叡山の焼き討ちや石山戦争だったのではないでしょうか?(本願寺なんて信仰を元手に戦国大名をやってたようなものですし宗教が俗世間を支配してる本末転倒と信長が思ってもしようがないかと…)
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2019/01/30 18:42
家康には天海や金地院崇伝など、実に怪しげで実力ある僧侶がついて知恵を貸していた逸話があります。
一方、信長については美濃を岐阜に改名した時の禅僧沢彦宗恩?の逸話ぐらい。
信長の仏教(だけでなく儒教、道教その他など)についての知識や理解は相当なものの様なので、
それをどこで手に入れたのか誰から教わったのか
非常に興味があるところですが、検索してもあまり情報がなく謎であります。
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2019/01/29 17:57
ゆりか様へ…現役時の大垣城の復元イラストや絵図を把握すると落胆がすさまじいです、とにかく現在も水路として使われてる一部の堀を除いてかんぜんに埋め立てられてるため本当に見る影もないです。(景観的に城跡が跡形もないところに天守を再建した長浜城と比べても天と地の差がある程)せめて本丸部分の水堀がほんの一部でも残っていれば少しは様になったのですが…
ああなってしまうともう観光資源としては絶望的であり、大垣市街も城周辺地域はさびれている印象がありました…

岐阜城の北京の天壇をモデルにというのはNHKの「堂々日本史」の記述なのですが15世前半に紫禁城と同時期にできた物なので日明貿易(室町幕府の勘合貿易)を通じて情報が入ってきてもおかしくないと思います。岐阜城のネーミングの由来も中国故事にちなんだものであり、
信長は天下平定の後は大陸へ進出して中華皇帝になろうと目論んでおり、その構想を引き継いだ秀吉が文禄慶長の役を引き起こしたのではと考える人もいるとか…

城山を持ってる人がいるというのはありますけど、天守を備えた城を最近まで個人所有してたというのは驚きですよね。どうも天守をはじめとする城の修復費用の負担に耐え切れず成瀬家の家宝や資料も含めて財団に移管したみたいです。
まあその財団である白帝文庫の理事長が最後の城主である成瀬家の現当主(ちなみに女性)なので外から見れば今も個人所有とあんまり変わらない印象がありますが…
ちなみに今の犬山城は本丸の天守と鉄筋コンクリートで再建された櫓門(管理事務所)しかないのでさすがに住むことは無理かと…

聞くところによると日本では信長が誕生パーティーを催した最初の日本人らしいです。
一応皇室なんかでは誕生日を祝う風習が奈良時代からあったらしいですけど(現在の天皇誕生日にあたる天長節)、基本日本は正月ごとに年を重ねていく数え年であり、信長の誕生パーティーは宣教師から得た知識を元にやったそうですね。これはルイス・ロイスの「日本史」に記録されており、「日本史」によると誕生パーティの19日後に本能寺の変で斃れてしまうわけです。

今回はホント疲れました…やっぱり無茶はするもんじゃないですね(苦笑)
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2019/01/29 17:01
こんばんは、みかささん。
後編も楽しみにしてました(*^^*)

大垣城って、そんな残念なお城だったのですね…。
関ケ原の戦いの際に、大垣城の留守を守っていた福原長尭が好きなので、結構気になるお城だったのですが、まさかそんなみずぼらしい姿をしているとは。ショックです。
でも、中の展示物は面白そうですね。

岐阜城は以前の記事で教えて頂きましたね。
地上の楽園、そんなに豊かに発展していたのですか。
中はすごい威厳がありそう。北京の皇帝の祭事って…信長はどこからそんな情報を仕入れてきたのでしょう。宣教師でしょうか。
信長の忍び、録画しておいてまだ最後まで見てませんが、天守で信長アニメが見れるとは最高ですね♪

犬山城って個人所有だったのですか?え~、個人で城持ちってすごい。
現代のお殿様ですね。あ、でも城に住んでいたわけではないのかな。
その話は初めて聞きました。

みかささんは信長と誕生日が同じなのですね!
というか、5月12日が信長の誕生日で、しかもパーティーを開いていたことすら知らなかったです。
当時は数え年だから、年が変わる事に年齢が上がるんじゃなかったでしたっけ?
誕生日を祝う発想があったのですね。

今回はだいぶ無理をされたようなので、暖かくなるまでご自愛くださいませ。
また春になったら、旅レポ楽しみにしてます。
教えて頂き、ありがとうございました(*^^*)




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