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南部紀行-其之壱

久々に遠出してきましたので,現地の美味しいものとか,見学物件について書こうと思ったのですが,いざ書いてみるとおよそそれとはかけ離れたものとなってしまいました。
それらは次回以降になりますので,まずは題名の由来から述べますので,我慢してお読みいただけると有り難いです・・・。



題名を見ると,いかにも明るい南の方へ行ったような印象を受けるが,事実は全く違っていて,むしろ北へ向かった。
なのに南部とはこれ如何に・・・となるのだが,何のことはない,私の住む伊達藩領と北に隣接するのが 盛岡藩-つまり南部藩だからである。
南部というのは,盛岡の殿様の名字のことだ。


今に残る南部の名を冠したものに「南部鉄器」と「南部煎餅」がある。
いずれも岩手県を代表するものだが,我が国でも北方を領した大名の姓が南部というのは違和感がある・・・と思った方はなかなかいい線をいっていると思う・・・。
秀吉時代の末期に盛岡の殿様となった南部氏は,実は源氏の流れを汲む武家の名門である。氏祖は何と平安時代末期の11世紀末まで遡る。
奥州-つまり現在の東北地方とは因縁浅からぬ八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光(1045-1127)が始祖である。
ということは,信濃守護職であった小笠原氏や甲斐の守護職だった武田氏と同族,と言っても良いかも知れない。
では何でその一族が南部などという姓を名乗ったのか。
それには,義光以降の系図を繙く必要がある。
義光は,兄義家亡き後の源氏の頭領の座を狙って次々に同族の後継候補を陥れていったこと(兄義綱と甥の義忠)が今は公然たるものとなっているが,京都政界での栄達を狙うと共に源氏の基盤である東国での勢力扶植にも力を入れた。
武田,佐竹,小笠原といった近世大名の祖が彼であることを考えると,その功績は大きいと言える。
その義光の長男義業(よしなり1077-1133)は常陸の佐竹氏の祖となり(佐竹は秋田の殿様と東北では認識されているようだが,それは関ヶ原以降のことであり,発祥は茨城である),次男義清(1075-1149)は同じく常陸国那珂郡武田郷(現ひたちなか市)に在して武田氏を称した。
あれっ,武田って甲斐(山梨)じゃないのか・・・と思った方は正しい。
義清は常陸の武田に在住して武田冠者を名乗ったが,現地に根を張る平氏の流れを汲む常陸大掾(だいじょう)氏との争いに敗れ,甲斐へ向かったという。
その義清の子が黒源太とか逸見冠者と言われた清光(1110-68)である。
この清光の子が,それぞれ光長(逸見),信義(武田),遠光(加賀美),義定(安田)となる。
その遠光(1143-1230)の子である三男光行(1165?-1236?)が,甲斐国巨摩群南部牧(現山梨県南巨摩郡南部町)を領して南部氏を称して氏祖となった・・・(次男長清が小笠原氏の祖)。
そして,光行は頼朝に従って平氏追討と鎌倉幕府創設に貢献。
その際に甲斐から陸奥に移住したと思われる。
奥州合戦で平泉藤原氏が滅亡した後,おそらく当地の地頭職にでも任命されて下向したと想像される。


以上が題名の解説であるが,ここまで書いて力尽きてしまった。
本当は,一昨日の夜に食した盛岡名物について書こうとしたのだが,そんな気力は残存しない・・・。
何で盛岡の殿様が南部で,武田氏が常陸出自であることを述べて終わってしまった・・・。





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