Nicotto Town


koshiのお部屋分家


またこんな時に・・・

しかしまぁ,よくもこんな時期にやってくれたもんだと思う。
尖閣諸島を巡る中国との一連の確執が未だ収まらぬこの時期に,今度はロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問ときたもんだ。
また,APEC首脳会議を控えた時に,何でまたこちらの神経を逆なでするようなことをしたのだろうか・・・。


周知の通り,日本とロシア(当時は帝政)の外交は1855(嘉永8)年の日露和親条約まで遡る(18世紀末,ラックスマンの根室来航というのもあったが)。
その際の国境は,国後島と得撫(ウルップ)島の間に定められた。
樺太は正式に境界が定められず,日露混在の地となっていた。
その後,ロシアはクリミア戦争によって西進政策が頓挫すると,主眼を極東に移す。
それによって,樺太を巡るトラブルが起き,当時の江戸幕府とそれを継いだ明治新政府によって,1874(明治7)年3月,特使として榎本武揚が帝政ロシアの府サンクト・ペテルブルグに赴き,樺太と千島列島を交換する条約が調印された。
これを千島樺太交換条約,或いは締結された地名をとってサンクト・ペテルブルグ条約とも呼ばれている。
さらに,日露戦争の勝利により,樺太南部を領有。
以後40年間,南樺太は我が国の領土となる。


そして,先の大戦での敗戦が来る。
1945(昭和20)年8月9日,日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍が満州に押し寄せる。
関東軍は抗すすべもなく敗退し,やがて8月15日を迎えることになる。
しかし,ソ連軍は南樺太に侵攻。
さらには,ポツダム宣言受諾後の8月18日には千島列島への侵攻を開始する。
意外に知られていないが,千島と南樺太,そして満州の一部では「終戦」後も戦争は行われていたのである・・・。
言ってしまえば,火事場泥棒というかどさくさ紛れ・・・。
アメリカの極東制圧に楔を・・・という意味でのスターリンの決定と言っても良いのかも知れない。
千島は勿論,北海道全域を支配しようとしたわけである。
その証拠に,ソ連は日本への占領政策において南北分割統治を提案。
これが通っていたら,私のところなんかソ連領となっていたのである・・・。
さすがにるそれは無かったものの,ソ連は南樺太国後・択捉両島を含む千島列島すべてと歯舞・色丹各島を占領し,連邦崩壊後もロシア政府による実効支配が続いている訳である。
その後のことについては述べるまでもないであろう。
日本共産党でさえ,千島列島全島の返還を打ち出しているのである・・・。


・・・で,メドベージェフ大統領である。
国家元首の北方領土訪問は史上初であり,日ロ問題を再燃させるリスクを背負ったものとなるのは必至であることは誰にでも分かる。
では何故,ということになる。
実は答えは明白。
言ってしまえば,2年後の大統領選のためである。
メドベージェフは先の大統領であるプーチンに比べて,知名度でも国民に対するインパクトの強さでも遜色がある。
つまり,ここでがつんと一発かまして,支持率を上げておこうということなのだろう。
いずこの国も,政治家の考えることは一緒である・・・。
しかし,そんなことのために我が国古来の領土である北方4島の実効支配が強まるのは,たまらない。
連邦崩壊後,東の僻遠の地である4島からは流出者が相次いだが,今はインフラ整備により生活が改善され,島民は増えているという。
そこへ来ての訪問である。
さらには,巨額な予算を投入してロシア本土並の経済発展計画に着手というから,島民には大歓迎されるに違いない。


韓国・中国,そしてロシアと,現内閣は外交での難題を突きつけられている。
どう対処していくかが問われるし,国民としては玉虫色ではない毅然とした対外政策を望みたいが,野党がこれ幸いと民主党おろしに躍起になったら,政局は混迷の度合いを増すばかりである。
与党支持の気はさらさら無いが,ここは一致して事に当たるべきではないだろうか・・・。
そして国民も,もっともっと北方4島のことを学んで知る必要が有ると思う。
竹島も尖閣も,そして北方4島も,決して他人事ではないのである・・・。





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