「江~姫たちの戦国~」-第4回「本能寺へ」
- カテゴリ:テレビ
- 2011/01/30 20:53:28
この手の番組を見る時,気になること,というか,いつも注意して見ていることがあります。
それは,各人物に対する呼称です。
例えば織田信長に対して,最近の作品では「信長様」,或いは「信長公」と呼んでいるようですが,当時は果たしてどうなのでしょうか・・・。
このあたりは,諱(いみな)と字(あざな)の違い,ということで,かつて述べたことがありました・・・↓。
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/b796fcbee40ed34dc0c5031fbd298c6e
ですから,この時点(天正9年)の信長に対しては,3年前に右大臣を辞していることから前右府様(さきのうふさま),若しくは以前の官名であり通称とも言うべき弾正忠(正しくは弾正少忠)とでも言うのが正しいのではないかと思われます。
以前の大河では,このあたりの考証は細かく行われていたようで,例えば「新平家物語」(72)では,平治の戦いにて源義朝が家臣の裏切りによって命を落とした際,清盛は義朝を「播磨守」と官名で呼んでいました・・・。
ですから,秀吉,光秀とは呼ばず,羽柴筑前(筑州),日向守と呼ぶのが正しいと思われます。
但し,これをやってしまうと,誰が誰なのか混乱するおそれがあるので,一番分かりやすい呼称である諱で呼ぶということになるのでしょうか・・・。
民放系の歴史ドラマの傑作と言われる「関ヶ原」(81)では,「家康」,「三成」・・・となっていました。
今回は,天正9(1581)年2月28日に正親町天皇在席で行われた京都御馬揃えからスタートしました。
実は,宮中の故事に明るい光秀が奉行を務めたことや信長が本能寺に泊まったことが語られていましたが,どうやら事実の模様です。
ただ,果たしてそこにお市とその娘3人が居たかどうかは確認できませんでした。
勿論,本能寺にお市母子が泊まったというのも同様です。
実際問題として,お市が翌天正10年に柴田勝家に再嫁するまで,果たしてどこにいたのかも分かっていませんので(安土?清洲?そして伊勢上野 ?),どのような解釈も可ということでしょう・・・。
尤も,お初があのようなお転婆キャラとして設定され,森蘭丸に対して嬌声をあげたというのはいささか今風に過ぎるかと・・・。
因みにこの馬揃えに際して,山陽道方面で毛利と対峙する秀吉は居なかったと思われますが,秀吉の与力たる一豊が参加して,夫人が手文庫の金で買い求めたという見事な「十両の馬」で面目を施したという故事はどんなものなのでしょう・・・。
それよりも,お江は信長とも光秀とも懇意,という設定は果たしてどうかと思います。
如何に昔は早熟だったときいえ,満8歳,数えで9歳の少女がいささか饒舌に過ぎるのでは・・・と思います。
饒舌と言えば信長も光秀に対して随分と喋りすぎるようで・・・。
直々にだれも居ないところで命令を下すのも?ですし,猿の下に付けというのもどうかと・・・。
確かに対四国(というか対長曽我部)政策は光秀に一任されており,齋藤利三の妹を元親に嫁がせたりしていましたが,この当時の光秀は山陰方面の司令官ともいうべき立場で(解任されたか否かは意見の分かれるところですが),急遽秀吉の援兵として派遣されることになった・・・というのが真相ではないかと思われます。
その際,家康の安土城訪問と上洛に伴って饗応役を命じられたのは(今回はその描写は有りませんでしたが),やはり信長の信任が厚かったのでは・・・と考えられます・・・。
・・・ということで,今回も無用の突っ込みをしてしまいました・・・(悪い癖だ)。
ストーリー進行のテンポが良く,飽きずに45分間を見終えることができるというのは面白いからに他ならないのですが,+αがどうも足りないような気がします・・・。
・・・でもって,やはり上野樹里嬢はのだめにしか見えないのは私だけでしょうか・・・。以前,のだめ終了後にやっていた「冗談じゃない!」でものだめにしか見えなかったのですが,さらにその翌年の「ラスト・フレンズ」では,のだめから完全に脱却・・・と周囲は言っておったのですが・・・(見ていませんでした)。
次回の本能寺の変,信長は血まみれで鉄砲で撃たれていました・・・。
そういえば,「功名が辻」(だったか?)でも銃撃されて絶命していたような・・・。
ですよね~
どう見てものだめにしか見えません・・・。
良かった,私だけでなくて・・・
今回は、のだめにしか見えなかった。
ま,一応・・・。
でも実はあまり詳しくありません・・・。