「平清盛」-第4回「殿上の闇討ち」
- カテゴリ:テレビ
- 2012/01/29 20:41:39
いや~,今回ものっけから楽しませていただきました。
長承元(1132)年に清盛が北面の武士となったとありましたが,清盛はこの年14歳です。あり得ないことではないでしょうが,松ケンが演じるには無理があるというものでしょう。
・・・ということは,殴り合いの喧嘩をした義朝は9歳です。
千秋もとい玉木くんが演じるのも無理があるというものです。
で,殿上の闇討ちですが,「平家物語」にも載っている名場面です。
あくまでも長承元年に拘っていたようですが,忠盛が昇殿を許されたのは白河法王の時代ではなかったでしょうか・・・。
つまり法王崩御が大治3(1128)年だとすると,従四位下となったのがその前年ですから,もっと以前のこととなるでしょう。
保安元(1120)年のことだったとも考えられますので,清盛や義朝には全く関係ないことだ
ったとなります。
但し,内昇殿を許されたのが長承元年と言いますので,そう考えれば辻褄は合います。
勿論,公卿たちが白昼から酒をぶっかけるようなことは無かったでしょう。
関白の前であんな狼藉をしたら,それこそ大変です。
公卿の嫌がらせはもっと陰湿で,自分の手を汚さない筈です・・・。
しかし,為義がヒットマンとなってあっさり忠盛に取り押さえられたあたりでさらにぶっ飛びました・・・(為義弱すぎ)。
確かに,忠盛の父正盛は,為義の父である義親を討ったことになっています。
しかし,武勇高き八幡太郎義家の次男であり,悪対馬守と呼ばれた義親がさしたる武勇も聞かない正盛にあっという間に(追討軍が出た翌月)討たれるなどということが果たして有り得るのか甚だ疑問であり,その後義親を名乗るものが散々あたこたに現れたそうです。
で,為義が源氏を継ぐ経緯は,義親の後源家の正嫡となった河内守義忠(義家三男にして忠盛の烏帽子親。忠盛の忠は義忠から来ていたのか・・・)が突然暗殺され,犯人と目された賀茂次郎義綱(義家次弟)が佐渡に追放(子6人は全員死亡。後に義綱も佐渡にて為義に討たれます)。
その結果,長男でもない為義に源氏の頭領というお鉢が回ってくることになったということです(このあたりの源家内紛を述べると,それこそとんでもないことに・・・)。
ですから,為義が忠盛を父の仇の子として狙うことは無かったのでは・・・と思います。
それよりも,何故この時代,源氏と平氏に差がついていたのか・・・の方が重要でしょう・・・。
そのあたりがどうも本作でははっきりせず,すっきりしません。
単に為義が情けないから・・・で済ませているような気もします(今更,義親が正盛に討たれたなどと為義に言わせても遅いでしょう・・・)。
これを語ると長くなるので,ひと言で言ってしまえば,摂関家の家人として勢力を伸ばしてきた源氏が,摂関家の衰退と共に力を失い,院に付いて北面の武士として力を伸ばしてきた平氏が台頭したということです。
では摂関家衰退のきっかけは何か・・・というと,やはり後三条天皇による延久の荘園整理令かと思われます。
摂関家の経済的基盤は寄進地系の荘園ですから,それを禁じられたらアウトです。
また義親の反乱(というと如何にも悪そうですが,それはあくまでも中央政界にとってのことです)とその後の内紛によっても源氏が力を落としたこともあるでしょう(義忠暗殺・義綱失脚の黒幕は判明しています)。
また為義は当初白河院に近侍したようですが,家来および本人の狼藉によって院の信任を失っていき,摂関家に近づくようになったようです。
・・・で,さらなる突っ込みを。
忠実が自ら
「この藤原摂関家」
などと言うでしょうか・・・。
摂関家ということばは,戦国時代同様後の時代に呼ばれたものではないでしょうか・・・。
それを言ってしまうと,「武士」ということばも果たしてどの時代から言われたのでしょう・・・。
12世紀初頭はに「武士」ということばが果たして有ったのかどうか・・・。
宮廷を警護する武者(むさ)ということばは有ったでしょうが・・・。
そのあたりは,私も分かりませんので,いずれ調べてみたいものですが・・・。
あ,そうそう。
藤木直人くんが佐藤義清(若き日の西行)を演じていましたね。
鳥羽院に仕える北面の武士だったことは事実でしょうが,何と百人一首にもある有名な
ながからむ 心も知らず 黒髪の みだれてけさは ものをこそ思へ
の句を若き日の西行が注釈したという・・・(唖然・・・)
これって,堀河局が老いてから,当時を顧みて技巧として詠んだものだったのでは・・・。同時代の歌人として西行との接点は有ったでしょうが,北面の武士に後朝の別れ云々を問うなんてことはあり得ないでしょうし,第一御所の女房たちの近くにむくつけき武者たちが居る筈も無いでしょう・・・。
・・・ということで,皮肉ではなく大いに楽しませていただきました。
次回は海賊退治らしいですが,清盛までの平氏三代が果たしてどのように海賊を討伐したのか,寡聞にして知りません。
長承4(1135)年のことと言いますから,清盛は既に27歳。
1週間で13年も経ってしまうとは・・・。
性格の悪い私は,番組に突っ込みを入れることを最近の楽しみとしています・・・。
待賢門院璋子良かったですね。
壇れい嬢(この方も元おねいさんか・・・)は気品があって適役と思いました。
大和郡山には都合2度ほど訪れたことがあります。
金魚の町として有名なので,郊外に溜池が散見されますが,街並みは昭和の面影を色濃く残していて大いに気に入りました。
近鉄からJRまで乗り換えるという荒技(謎)をやりましたが,あの街並みは今も印象に残っています。
考えてみたら,初代城主は筒井順慶でしたね。
信長時代の普請ですから・・・。
個人的には関ヶ原前後の増田長盛時代が興味深いです。
家老の渡辺勘兵衛が見事な撤退ぶりだったという・・・。
地元ではやはり殿様と言えば柳沢侯なのでしょうか・・・。
そっか,大坂の役の後は水野勝成でしたか・・・。
歴戦の武士ですね・・・。
中井貴一は,「武田信玄」の頃はひょろひょろした醤油顔のにいちゃんでしたが,「壬生義士伝」の頃から,良い俳優さんになりましたね。
ベンジャミン伊東と三上博史の親子は良かったですね・・・。
3回で悶死は勿体なかったです・・・。
崇徳院は,どのように描かれるのでしょうね・・・。
白峰のくだりは出てくるのかどうか・・・。
この時代は,わりと好きな時代なので,ついつい能書きたれたくなります(悪癖)。
但し,それもいつまで続くか分かりませんが・・・。
11世紀~12世紀の源氏の内訌は調べるといろいろ分かりますね。
血塗られた一族というのがよく分かります・・・。
今回までは子役がやってもいい年齢だったんですね。
ドラマですから何でもありで、御殿に仕える女房まして待賢門院珠子が、
並み居る殿上人に御簾なしに顔を晒す事は考えらませんが、これも仕方ありませんね~
そして百人一首の有名な短歌が二首出て来てびっくりしました。
昨日行った柳沢文庫は、私等の地元の大和郡山城跡にあるのですが、
最初は織田信長の命を受けた筒井順慶が築城したのですが、志半ばで亡くなり
その後秀吉の時代秀長が、大和、紀伊、和泉で百万石を与えられ入りました。
その後大阪夏の陣などで荒廃しましたが、水野勝成、家康の孫松平忠明が郡山に封ぜられ
郡山城と城下町の復興に努め昔日の面影を取り戻していきました。
その後も、徳川譜代の大名である本多氏松平信之が城主となっています。
そして享保九年には柳沢吉保の子吉里が甲府から十五万石で国替えとなり郡山に入りました。
以後六代にわたって在城し、明治維新を迎えています。
百万石の威容を誇った郡山城でしたが、明治六年に惜しくも競売にかけられ、解体されてしまいました。
それらの資料などや、その頃の取り交わした書簡などが展示されていました。
清盛の父ちゃん、なかなかカッコいいではないか~♪ と、私が感想を書くと←こうなってしまいます。^^;
悩める鳥羽院も、さもありなんと思いますね。
また子ども時代の崇徳院もチラリと映ってましたが、ほほぉ、この子が後に怨霊になるのかと
そのあたりも興味の尽きないところです。^^
流石にお詳しいですね。ドラマよりもkoshiさんのブログのほうが何倍も面白い。
私の日本史の知識は教科書を超えるものではないので、埋もれたわずかな記憶を
掘り起こすだけでなく更に敷衍していただけるのでありがたいです。