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「平清盛」-第5回「海賊討伐」

よくよく考えてみると,この時代(12世紀前半)は見事なエアポケットでして,知識的にかなり苦しいものがあります。
特に,延久の荘園整理令による摂関家の凋落と院政の開始,源家の内訌と平氏による瀬戸内海海賊討伐等,己の不勉強を恥じつつ今回の感想を書くことになります・・・。


寡聞にして存じませんが,待賢門院璋子と白河院は只ならぬ関係だったということでしょうか。
そうなると鳥羽院が美福門院を寵愛したのも,待賢門院が白河の没後に凋落したのも,待賢門院の子の崇徳帝が父鳥羽によつて譲位させられたのも合点がいくというものですが・・・。


平氏の瀬戸内海賊討伐は,前回述べたように長承4(1135)年ですが,果たして何か資料として伝わっているものがあるのでしょうか。
私は単に,忠盛は父正盛同様西海の海賊を討伐した功によって後の清盛による平氏の中央政界進出の足かがりを得たぐらいに書かれたものしか知りません。
武勇高き正盛でさえ,源義親をあっという間に平らげたというのが眉唾くさいのは先週も述べたとおりです。
では,平氏による海賊討伐とは何だったのか。
これは勿論私の推測に過ぎませんが,要は手馴れた懐柔ではなかったかと思います。
後に清盛は瀬戸内海の海上交通権を独占し,日宋貿易によって莫大な富を得ますが,これこそ瀬戸内海を横行していた海賊連中を手懐けていたからではないでしょうか・・・。
つまり,海賊たちに餌(富)をばらまいておいて,もっとおいしいところをがっぽりいただくという・・・。
で,海賊たちを黙らせておいて,討伐したことにして武名も富も一気に手に入れる。
・・・と書くと,如何にも清盛が狡猾で計算高い悪い男に見えそうですが,むしろ逆でこの時代には珍しく経済の分かる男だったのでは・・・と思ったりします。
武力とは膂力のみならず,知力と胆力あってのものであり,後の平治の戦いに於いて洛中の被害を最小限に留めるという戦略家として見事な才能を発揮した清盛ですので,きっと先の見える無駄のない戦いをしない男だっのではないでしょうか・・・。


で,千秋もとい義朝が東国に下ると父為義に言い放ちました。
上記長承4年とすると,義朝は数えで13歳。
玉木くんが演じて,清盛や義清という北面の武士と一緒に居るにはかなり無理のある設定でしょう。
只,義朝が東国で少年期を過ごしたのは事実で,父為義が安房国の丸御厨(まるのみくりや)を領していて,当地で育ち現地の丸(麻呂)氏,安西氏,そして房総最大の勢力と言える上総介(かずさのすけ-平姓)や千葉氏(同)に庇護されて育ち上総御曹司と呼ばれ,やがて関東に勢力を扶植して,「板東の源氏」の基礎を作ったことは疑いないでしょう。
例えば,かつて拙エントリで述べた義朝長男鎌倉悪源太義平の母は,三浦半島を根拠地とした三浦一族の長である三浦大介義明の女とも言われていますし,二男朝長の母は西相模の豪族である波多野氏の女であったとも言われます。
さらに相馬御厨(そうまのみくりや)や大庭御厨(おおばのみくりや)といった荘園を巡って在地武士団と対立してそれらを傘下に収めていき,千葉,熊谷,大庭,梶原,三浦,岡崎といった武士団(大部分が平姓)が,保元・平治の戦いを経て,やがて源氏の兵力の中核を担うようになっていきます。
言うなれば,義朝が東国に勢力を扶植したからこそ,頼朝の挙兵が成り立ったとも言って良いかもしれません。
東国での成功を足がかりに,義朝は父為義とはことなる方法で中央政界進出を企図したということでしょう。
しかし,やがてこのことは源氏のお家芸とも言うべき内訌に繋がっていきます。
保元の戦いにおける義朝の立場はまさにその結果と言えるでしょう。
このことに関しては,もっと述べたいところですが,完全に清盛から逸脱してしまうので,今回は自重しますが,いずれ為義・義朝父子が袂を分かつことになるまでに書いてみたいと思います・・・。


しかし,どーでもいいことですが,ハリセンもとい忠正出まくりですね。
伏線張っているのが見え見えのあざとい脚本ということでしょうが,どうしても忠正出すなら,清盛のライバルとして息子3人(長盛,俊綱,忠綱)出して,散々に対立させた方が分かりやすいような気がします。
さらに何故忠正の一党が保元の戦いで崇徳院-頼長方に付いたのか,現時点では見えてきません。
清盛に従うのを潔しとしなかっただけでは薄弱すぎるでしょう。
吉川英治のライフワークで40年前の大河ドラマである「新平家物語」では,冒頭で貧窮に喘ぐ忠盛の命で平太清盛が叔父忠正の屋敷に借金に行くことから始まり,その確執が保元の戦いで一気に噴出しますが,どうも今回の映像では単なる感情論のみを引きずったまま行きそうです・・・。


突っ込みどころ満載で,字数制限で刎ねられるくらいの根多を提供してくれるのですから,皮肉抜きで有り難いです。
但し,いつまで見続けることができるでしょうか・・・。
で,最後に,清盛ってどこで生まれたの(京か)??我ら伊勢平氏って言ってたけど何のことか分からないと思うのですけど・・・。

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2012/02/07 23:39
わかばさん,今晩は。
待賢門院は,藤原忠実と縁談があったのだそうですね。
で,素行に問題があったとかで破談になったとか・・・。
ということは,紛れもなく白河のお手が付いて・・・。
精力絶倫の白河院ならさもありなんと・・・。
鳥羽院もそうですが,気の毒なのはやはり崇徳院ですね・・・。
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2012/02/06 23:18
「鳥羽院、崇徳院ヲ実子トシテ遇セザル事」(『古事談』)

待賢門院ハ、白河院ノ御猶子ノ儀ニテ入内セシメ給フ。ソノ間ニ、法皇密通セシメ給フ。人皆コレラ知レルカ。崇徳院ハ白河院ノ御胤子ト云々。鳥羽院モソノ由ヲ知ロシメテ、「叔父子」トゾ申サシメ給ケル。

とのことです。もうぐっちゃぐちゃですね。^^;




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