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南羽州紀行,2012-其之壱「出羽の梟雄」

慶長5(1600)年9月の関ヶ原の役以降,幕府は東軍に付いた豊臣恩顧の大名を意外な程厚遇します。
そして,やがて2代将軍秀忠の代になると,幕府の策謀によって次々と改易(取り潰し)になっていくのですが,現在残る城下町の遺構は彼らによって築かれました。
例えば,我が街の街割りをしたのは独眼竜と呼ばれた伊達政宗でしたし,高知は山内一豊,福岡は黒田長政(現在の福岡市の由来は,長政父の如水が所縁の備前福岡-刀鍛冶で有名な長船の近く-から取った)が街割りを進めました。
これら3家は太平の世を260年間存えましたが,以下の大名家は改易となりました。
例えば,熊本の加藤家,松江の堀尾家,広島の福島家等です。
それぞれの改易事情を述べると,それこそとんでもない分量となるので自粛しますが,加藤,堀尾の両家は,今尚熊本と松江で慕われていると聞きます(少なくても熊本は,細川ではなく加藤でしょう・・・)。
で,山形の街割りを進めて,近世城下町を形成するに至った 最上義光(もがみよしあき)もどうやらその1人のようで,山形では今尚大切にされているようです・・・。


何せ山形県出身にも関わらず,伊達藩領で育った私ですので,最上氏や上杉氏といった隣県の大名に対する認識は極めて甘く,政宗母(義姫という諱が伝わっていますが,父や兄のから察するに眉唾ものかと思われます)が最上氏だったこと(弟藤三郎を家督に擁しようと小田原参陣の政宗を毒殺しようとしたとも),殺生関白と言われた秀次の側室に義光女の駒姫が居り,父の助命嘆願も虚しく秀次に連座して僅か15歳にして六条河原で斬られた(しかも輿入れ前だったという説も)ことぐらいしか知りませんでした。
あとは,東北の関ヶ原と言われた長谷堂城の戦いにて,退却するかねたんを追撃したことぐらいでしょうか・・・、。
ですから,せっかく山形に行くのだから,義光について少し学んでこようと思って出かけました。


調べてみると,さすが東北の戦国大名らしく,結構えぐい生き様です。
二回り年下の政宗と相通じるしたたかさを持った武将のようで,少なくても秀吉没後の混乱期を立派に生き残ったあたり,時節を見る目は持っていたと言えるでしょう。
例えば,小田原の役の際に宇都宮城において秀吉に謁見して本領を安堵されています。
政宗の小田原参陣よりも時期的には後ですが(政宗は,上述の母による毒殺騒ぎがあって,参陣が遅れた),抜け目なく家康に近寄っており事なきを得ます。
また,秀吉政権晩期の慶長大地震の際は(加藤清正が真っ先に駆けつけ,文禄の役の際に三成の報告によって秀吉に受けた勘気を解かれた所謂「地震加藤」とは真逆に),家康に近侍して,着々と後の世に対する布石を打っています。
また,隣接する小野寺義道を挑発し,謀略によって重臣を義道に斬らせるなど,結構なことをやっていますし,上杉景勝とは私の故地である庄内地方を巡って,度々争っています。こうした情勢での関ヶ原ですから,当然義光は東軍に付き,会津置賜120万石の上杉と対立します。
出羽の関ヶ原と言われる長谷堂合戦は,こうした中で行われました。
上記小野寺義道を牽制するために庄内地方に出兵していた義光には僅かの手勢しか残されていませんでした。
そこを2万と目されるかねたんの軍勢が押し寄せてきたのですから,本来はひとたまりもなく蹂躙されたところでしょう。
しかし,かねたんが包囲した山形城は霞がかかっていて攻めあぐね,長谷堂城は城将の奮戦もあり容易に落ちず(城兵は上杉軍2万余に対して4,000とも),義光の虎の子である2,000挺もの鉄砲を駆使して善戦します。
関ヶ原の敗戦の報が届き,上杉軍はかねたんの所領である米沢に向けて撤退を開始しますが,義光が黙って見ている筈がありません。
猛烈な追撃戦を展開したものの,後一歩でかねたんを討ち漏らしたと聞きます・・・。
因みに,同じく東軍に属する伊達軍は,義光の依頼によって留守政景以下3,000余の援軍を送りますが,戦局を見守るに留まりました。
このあたりは機を見るに敏な独眼竜のことですから,最上と上杉の双方が弱ったところを漁夫の利・・・と思ったであろうことは難くありません。
義光の只者ではないところは,この長谷堂合戦後に如実に現れています。
かねたんを追撃しただけではなく,上杉領の庄内地方・由利郡(秋田県南部)をどさくさに紛れて奪取し,勢いに乗り小野寺氏の横手城をも攻略。
さらには,秋田実季を東軍を裏切ったと讒訴して,常州宍戸へ追い出すことに成功・
上杉領(というか当時はかねたん領)の置賜郡を除く現山形県全土と平鹿郡・雄勝郡(秋田県南部)57万石という大大名となりました。


最上氏は,他の戦国大名とは異なり,源姓足利一族斯波氏族という歴とした血筋を誇ります。
つまり室町幕府の奥州・羽州探題であった斯波氏(現岩手県紫波郡出自とも)の流れを汲む源氏の名門でした(この点では甲斐武田氏と共通します)。
最上氏は南北朝時代の延文年間(1356 - 60)に奥州管領斯波家兼の子である斯波兼頼が出羽国按察使として山形に入部し点山形城を築城し本拠としたことに始まると言います。
守護大名の集合体であり,将軍とは言え足利氏の力がなかなか地方にまで及ばず,奥州や九州では南朝勢力が未だ蠢動している時期でもあり,それに対する幕府の布石であったということでしょう。
戦国期には伊達氏と争ったりして,一時勢力を落とすものの義守-義光の代に出羽の大名として躍進したことは上述の通りです。


一代の梟雄とも言うべき義光の墓所は,市内の光禅寺にありました。
亡くなったのは慶長19(1614)年。
同年暮れには大坂冬の陣が起こります。
今尚山形市民に慕われる義光の威徳は,山形城にほど近い最上義光記念館にて偲ぶことが出来ます。
ここにあった長谷堂合戦屏風には,武将の名前が細かく記され,暫し時間を忘れて見入りました・・・。
(最上氏の顛末までを書こうとしたのですが,力尽きました。明日続きを書けると良いのですが・・・)

画像を少々貼りました。宜しかったら,本家へどうぞ・・・。
         ↓
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/c3103ed2b6fef69ba9d69b7a60270fa0

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2012/08/24 00:32
sinkaさん,今晩は。
どん亀レス,すみません・・(滝汗)
弘前にせよ,盛岡にせよ,そして山形にせよ,必ず伝統ある城下町には,寺町が割り振られ,大寺が勧請されましたね。
これだけのお寺をロハで見ることが出来るというのは,本当に嬉しいです。
光禅寺の回遊式庭園,時代が近い天龍寺に似ていました。
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2012/08/17 18:02
おお~勉強になります( ..)φメモメモ

記念館、素敵なところですね~*
私も行ってみたいです!!

光禅寺の庭園もお見事・・・私も写真撮りに行きたいです~~~

立派な門構えで背筋がピッとしちゃいますね@@
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2012/08/17 16:35
ましゅさん,今晩は。
ああ,BASARAには出るでしょうね。
美形キャラじゃないし,確かに人気は無さそうな・・・。
「信長の野望」ではかなり戦闘能力高いです。
かねたんとは,
http://item.rakuten.co.jp/miyageya/c/0000000240/
です。
3年前の主役ですね。
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2012/08/17 16:32
月さん,今晩は。
私と一緒に行くと,家人はげんなりしています・・・
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2012/08/16 21:56
関係ないですが戦国BASARAに最上義光出てきます・・・
あまり素敵な方ではなさそうですね・・・

そして、かねたんとは一体どちらさんなのでしょうか・・・無知ですみません。
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2012/08/16 21:28
歴史が詳しい人と旅行っていいな^^




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