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「八重の桜」-第5回「松陰の遺言」

数年前,仕事で会津若松に行った時のことです(私の周囲では,会津若松のことを会津と短縮して呼びますが,これには度々違和感を覚えてきました。会津とは福島県西部全域のことなので,若松と呼ぶか-福岡の若松と被るのですが-短縮せず会津若松と呼ぶべきでしょう)。何か気の利いた土産を・・・と思って,鶴ヶ城の北西部にある繁華街の神明通に程近い蝋燭店に足を運びました。
蝋燭店の老主人がまた歴史好きというか,典型的な会津っぽのような方で,戊辰の役に於ける白川口の攻防戦や,白虎隊の悲劇を生んだ戸の口原の激戦について熱く語ってくれました。
その際,私がうっかり口を滑らせたのです。
「官軍の主力は何故に母成峠から会津に侵攻し,二本松城を落としていたにも関わらず,猪苗代口から攻め込まなかったのですか」
という質問にご主人は,
「母成峠は今でも冬に通行止めになる難所なので守りが手薄だったのでね・・・」
と答え,その後で
「会津では,官軍とは言わず西軍と言うのです」
と,穏やかながら厳とした口調で仰いました。
戊辰戦争後140年以上が経ち,往時を知るものが誰もいないというのに,何という執念というかナショナリズム。
私は,己の無学を恥じると同時に,会津人の独立の気風が今尚脈々と引き継がれていることを痛感しました。
絵蝋燭という郷土の伝統文化を守り伝承していく使命感を持っている方々だけに,そうした思いは人一倍強いのでしょうか・・・。
そうした意味では,奥羽越列藩同盟に与しておきながら,さっさと降伏してしまった我が藩など,許されるものではないのかも知れません・・・。
毎回番組を見て,会津の風物に触れる度に,そんなことが思い出されます。
会津若松を最後に訪ねてから,4年もの歳月が流れました・・・。


朝廷の勅許を得ないまま諸外国との条約に調印した井伊に対し,諸国では攘夷がしきりと叫ばれます。
攘夷という言葉は,おそらくこの安政年間の流行語大賞もんでしょう。
但し,覚馬が自宅にて攘夷派に襲撃されたという一件は,寡聞にも知りませんでした。
根拠が有ってのことなのでしょうか・・・。
だとしたら,襲撃した攘夷派の武士達も無事では済まない筈であり,その後覚馬が大砲頭取に抜擢される訳ですから,もし史実としたらその後のことも語られなくてはならないと思いました。
松陰(寅太郎と呼んでいたのは正解)の最後の日々が,日本を発つ直前の勝(海舟と呼んだのは×。麟太郎でしょう)によって覚馬に齎されますが,この三者はどれ程知己たり得たのか甚だ疑問です。
木挽町にあった佐久間象山の塾にて蘭学を学んだのは確かで,その際に顔見知りになった可能性はありますし,松陰は会津を訪れていますので,覚馬と会った可能性もありますが,あのように深く親密な仲だったとは到底思われません。


安政の大獄によって,松陰が刑死。
勝が咸臨丸(艦名は出ませんでした)で渡米している間に,桜田門外の変が起こり,井伊が慙死。
幕府(御三家のあと2つの尾張と紀州)が水戸を討つという話は初めて聞きましたが,果たしてそのような動きは有ったのでしょうか・・・。
激昂した彦根藩が,水戸を討つということは藩論として当然の如く起こりましたが,上層部が慰留したということです。
当然のことで,何せ大老を死なせた責任を負って,2年後の文久2(1862)年までに供奉して生き残った者すべてが処刑されており,藩としても減封された上に京都守護職を解かれるという憂き目にあっている訳ですから,いくさどころでは無かったことでしょう・・・。でもって,その京都守護職が会津藩に巡ってくる訳ですから,桜田門外の変が会津藩に与えた影響は極めて甚大であったということになるでしょう・・・。


次回は,容保があっさり守護職を引き受けるような雰囲気ですね。
予告では,
「徳川宗家と存亡を共にする」
みたいなことを言ってましたし・・・。
病弱であることを理由に再三固辞したのではなかったでしょうか・・・。
・・・と突っ込んでみましたが,今回も皮肉抜きで楽しめました。
やればできるじゃないか,NHK・・・。
終盤,祭の場面では,磐梯山の山容が美しく描かれ,摺上原付近と思しき風景が広がっておりました。
会津の大地を戦雲が覆うまで,あと僅か8年。
その間に,会津藩は京都守護職を拝命し,坂下門外の変が起き,薩会同盟,八月十八日の政変,禁門の政変(蛤御門の変),長州征伐,薩長同盟,大政奉還,そして戊辰戦争・・・と歴史は大きく動いていきます・・・。
その歴史の潮流の中に投げ込まれた会津藩は,否応なくうねりに飲み込まれていくことに・・・。
つまり戦争に善悪など無く,歴史の非情な流れに飲み込まれた・・・ということでしょう・・・。
戦争とは,多分そういうものです・・・。


・・・ということで,全く感想になっていませんね。
八重の八の字すら書きませんでしたし・・・。
またしても,やらかしてしまいましたが,ここ数年の大河と違って,見るのが楽しみです。その点が決定的に違うところでして・・・。

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2013/02/07 22:48
meianさん,今晩は。
司馬遼太郎は
「東北は素晴らしい」
と,「街道をゆく」で述べていますね。
戊辰戦争で敗軍となった会津藩に対して,新政府軍は苛酷な使役を強いました。
そのあたりが,今尚連綿と繋がる会津と長州(会津戦争の司令官は土佐の板垣でしたが)の確執なのでしょう。
弁護士さんのお話,むべなるかなです・・・。
長州としては,今更会津云々ではないでしょうが,会州としては絶対に許せないでしょうから・・・。
多分今後もそうでしょう・・・。
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2013/02/04 11:25
こんにちは。
昔、仕事で浜通りのいわき市に1年ほど通ったので福島には関心があります。
でも、会津方面に行く余裕がなかったのが残念でした。
廃藩置県でほとんどの藩名がそのまま県名となったのに、官軍(西軍?)に抵抗した会津藩は明治政府に
意地悪されて若松県に…、と司馬遼太郎が「街道をゆく」に書いていますね。
いずれにしても地名への思い入れは、消し難いものがあるということ…。

10数年前の話ですが、週1で通っていた飲み屋に長州と会津出身の弁護士が
長年そのお店に通っているにも拘わらず、カウンターの両端が指定席で二人とも
会話をしたことがないというのが常連さんの関心を呼んでいました^^。
ある年齢以上の方はその出身地方の歴史を引き継いでいるようですね。





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