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「八重の桜」-第9回「八月の動乱」

幕末維新史は難しい・・・。
多くの方が持つ感想ではないでしょうか・・・。
実は,私もそうでした。

幕府・会津-佐幕・開国
薩摩・長州-尊皇・攘夷

と,単純に思ってきましたし,明治維新とは所謂薩長土肥の西国勤王諸藩が,朝廷を担いで,幕府を倒したもの・・・とも思ってきました。
勿論,それはそうではあるのでしょうが,それまでの経緯はそんな単純なものではありません。

例えば,今回など秋月悌次郎と山本覚馬が,薩摩の高崎佐太郎(正風)と会うくだりがありました。
え゛・・・,薩摩と会津が同盟・・・??佐幕と尊皇が・・・??
と,思われる方も多かったのではないでしょうか・・・。


当時京都政界に幅を利かせていたのは,三条実美や姉小路公知といった急進派の公卿たちです。
言うまでもなく長州藩が後押ししており,久坂玄瑞(義助)や久留米藩士真木和泉等がその急先鋒であったということでしょう。
それを何としても追い落としたいのは,言うまでもなく薩摩です。
ですから,薩会同盟というのは,当時としては必然であったに違い有りません。
朝廷を担いで京都政界を牛耳ようとしているのが長州であったのに対して,薩摩と会津は後の大政奉還に見られるような(これは土佐の献策でしょうが)公武合体がモットーだったのでしょう・・・。
つまり,いずれもが勤王です。
新選組の思潮も勤王。
このあたりが,東西白黒のカテゴライズができない幕末維新史の複雑なところなのでしょう・・・。
いずれにしても,薩会2藩を中心とする公武合体派が中川宮朝彦親王を戴き,尊攘急進派を追い落とすクーデターが成功し,長州藩は京都政界から追い出されました。


以上が,私が勝手に解釈して簡単に述べた八月十八日の政変の背景ですが,今回の映像は多少の注文が付くところはあるものの,良く練られていたと思います。
少なくても,近年の幕末ものでここまで丁寧に語られたことは無かったと思います(少なくても,3年前の「龍馬伝」の100倍は・・・)。
堺町御門警護を解かれた長藩の苦渋もよく描かれていたと言って良いでしょうし,故に翌年6月の池田屋事件や7月の禁門の政変(蛤御門の変)へ至る暴発も必然性を帯びるというものです・・・。
言ってしまえば,元治元(1864)年という年は,長州にとっては散々踏んだり蹴ったりの,忌むべき年だったということになり,それは前年の八月十八日の政変によって急進派の公卿7人とともに京都政界で失脚したことが直接的な引き金となったということでしょう・・・。
蛇足ながら,この時長州藩と共に京都政界から失脚した7人の公卿を列記しておきます。
三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の7人なので,7卿落ちとも言われています・・・。
中でも錦小路頼徳は,翌年長州赤間ヶ関にて,30歳の若さで没しています・・・。
他の6人が明治維新以降も生き残ったのに対して,哀れと言うべきでしょう・・・。


・・・でもって,来週は池田屋事件まで行ってしまうようです。
象山先生も確か同年に斬られたのでは・・・。
そう言えば,同時に起きた天誅組の変については何も無かったですね(確かに直接関係ないか・・・)。
又しても八重のやの字もなく終わってしまいました・・・。
この時点で数えで19。
当時としてはハイミスでしょうね・・・。
尚之助との結婚は翌々年の慶応元(1865)年でしょうから,今からそのことが延々語られるとしたら勘弁して欲しいですが,どうもそんな雰囲気ではないような・・・。

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2013/03/10 16:33
サモワールさん,こんにちは。
そうでした,京都にお住まいでしたね。
羨ましい限りです。
猿が辻は,同大の南,今出川御門を入った辺りでしょうか・・・。
だとすると,以前歩いた際は,子ども用の遊具のある公園があったような・・・??
あの辺りが公家屋敷街だったとはなかなか想像するのが難しいですね・・・。
姉小路卿は勝麟太郎と共に軍艦に乗っていますね。
攘夷派の第一人者という印象ですが,開明的な思想の持ち主だったのかもしれません・・・。
しかし,その卿を殺ったのは本当は誰だったのでしょうね・・・。
薩摩の田中新兵衛ということになっているのでしょうが,何とも眉唾臭がします・・・。

佐幕の対義語は尊皇ではないでしょうね。
幕閣だって,朝廷を軽んじたり蔑ろにしたりした訳では無かったでしょうし・・・。
勿論,善悪を論じるのは論外と思います・・・。
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2013/03/05 13:53
幕末公卿というと、僕としてはいつも脳裏を過るのが姉小路公知。
京都御苑は家からそう遠くないのでよく歩くのですが、御所猿が辻を通るたびに思い出します。当時の猿が辻は今のように解放的じゃなく、公家屋敷が林立している只中でしたから、イメージするのが大変ですが。姉小路卿は直前に軍艦に乗船したという話を聞いたように思います。この方が存命で、宮中で発言力があれば、維新の流れも少しは変わったかも知れません。
武家方でも諸侯が政治への発言を求めて動き出しますが、宮中においても同じで、摂家や清華家ならともかく、宮方や中級以下の公家が発言力を強めようと画策しているのは興味深い。やっぱり明治維新は革命なんだなと思うところです。
この時代、著名人で尊皇でない人を探す方が大変ですよね。佐幕攘夷は入り乱れていても、決して天皇を軽んじる人は、少なくとも表向きには見当たらない。井伊大老とて決して天皇を軽んじていたわけではないですもんね。




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