Nicotto Town


koshiのお部屋分家


關西紀行,其之四:天下分け目の大暴走・・・

遠州から参州へ。
静岡から愛知に入る。
豊橋が,吉田と呼ばれていたことは,前回述べた。
その豊橋を出ると,東海道新幹線は一気に三河湾に近づき,その後遠ざかって北西に進路を取る。
三河湾沿岸の西浦温泉には,一度行ってみたいと思っていた。
幡豆,西尾,形原,御油(御津)と,松平氏所縁の地名が散在する。
以前,鈴鹿サーキットへの紀行文で述べたことがあったが,旧郡名てせいうところの幡豆郡から額田郡にかけては,15世紀以降松平氏の一大根拠地であった。
徳川家では,伝説的な系図を作り,上州新田源氏の末裔であると称したが(このあたりの徳阿弥の伝説とか,読んでいるとなかなか面白い),氏祖を新田氏の祖である義重の四男得川(徳川・世良田)四郎義季に遡るとした。
義季は,上州新田郡徳川郷に住して,徳川四郎を名乗ったわけだが,現在も太田市南部,利根川に程近いところに,徳川町が存在し,隣の世良田には東照宮も有り,一帯は歴史公園となっているようだ。
賀茂神社の神官だったというのが,現代の定説のようだが,伝説であろうと無かろうと,我々素人がいろいろと考えるのは自由であり,真相の究明は,偉い学者先生に任せておけば良いと思う・・・。
因みに,鎌倉時代,三河の守護は,足利氏だった。
細川(額田郡細川郷-岡崎市細川町),吉良(幡豆郡吉良荘-西尾市。名鉄吉良駅がある)今川(幡豆郡今川荘-西尾市今川町)といった諸族を輩出した。
だから,家康は,足利氏のライバルたる新田氏を名乗ったのでは・・・とは,以前も述べた・・・。
忠臣蔵で有名な吉良氏の出自は三河の足利源氏であり,今川氏よりも家格が上の摘系であったとも言える。


などと思っているうちに,新横浜の後唯一の停車駅である名古屋駅に滑り込む。
かつては,新幹線からナゴヤ球場が見えた記憶があるが,最近は進行方向右側に座ることが多いせいか,面倒で確認しなくなった。
97年にナゴヤドームが完成して,二軍の本拠地となったようだが,ホームプレート後方の地面に書かれたDragonsのロゴは,今も有るのだろうか・・・。
20数年前は,必ず巨人戦になると,小松・鈴木孝・牛島の三本柱を当ててくるのが,兎ファンとしては,何とも小憎らしかったものだ・・・。
81年,江川と小松の150km応酬も,ここだったと記憶している(同年の宇野ヘディング事件は,後楽園)。
私の周囲には,何故か中日ファンが多く(殆ど男),次いでヤクルトファン(専ら女性)が多かったが,今もファンを続けているのだろうか・・・。


名古屋を出てすぐの,清洲城を確かめるのを忘れた。
名誉城主は,織田信成だったと記憶している。
尤も,信長~信雄~福島正則時代の清洲城は,五条川を挟んだ対岸であり,今の清洲城は全くの観光城ということだろう。
全く関係ない伏見桃山城よりは,まだましか・・・。


その後は,輪中地帯を進む。
木曽川,長良川,揖斐川の順に,濃尾平野の三大河川渡るが,昭和51(1976)年には,堤防が決壊して大変だったことを思い出した。
この辺りは,旧美濃国安八郡。
信長に仕えた光秀が,初めて領地をもらったところ・・・と,記憶している。
朝倉家で捨て扶持同様の石高だった光秀も,信長の太っ腹に驚いたことだろう・・・。
三河~尾張~美濃,そして近江も,歴史の表舞台だっただけに,この手の根多は多い・・・。
例えば,美濃は天下取りの地と呼ばれる。
関ヶ原の役は,その象徴であるが,私の知りうる限り,関ヶ原以前も2度の大いくさが行われている。
1つは,所謂壬申の乱である。
大海人皇子(天武天皇)は,飛鳥から伊勢を経由して美濃へ逃れ,不破の関を封鎖することで,東国の軍勢を押さえることに成功し,一気に畿内に攻め上った。
もう1つは,延元3(1338 北朝だと建武5)年の青野ヶ原の戦いである。
奥州の軍勢を中核とする北畠顕家軍が,足利軍を散々に破った。
尤も,大海人皇子は勝利した後,飛鳥浄御原宮で天武帝となるのだが,北畠顕家は,伊勢~和泉と転戦して,遂には泉州石津で戦死する。
南朝悲史の1つであるが,何と顕家は僅か21歳であった・・・。


その古代から関所のあった不破郡に入ると,急に雪が深くなる。
関ヶ原とは,不破の関から来た地名であろうが,狭隘部だからか,吹きだまりのようになって,降雪があるのだろうか・・・。
毎年新幹線はここで徐行するので,京都到着がえらく遅くなる。
仕方のないことではあるが・・・。
県境の伊吹山は,当然のことながら冠雪している。
南北朝時代から室町時代初期,伊吹山に館を構えたのは,佐々木(京極)導誉(高氏)であった。
南北朝の動乱と,足利家内部の紛争である観応の擾乱を巧みに生き残り,多分男として最高の人生を送ったと思われる人物である。
箱根竹ノ下の戦いでは,あっさりと新田軍を見切って,足利軍に味方するなど,節操のない生き方をしたと思われがちだが,導誉には有り余る教養があったと言われる。
当時流行った立花などは,導誉が始まりと言われているらしいし,幕府内でも一目置かれる存在であったことは間違いない。
そのような彼を,人々は婆娑羅(ばさら)大名と呼んだ。
黒田官兵衛のことで書いたが,中世以降近江を支配したのは,宇多天皇を祖とする佐々木氏であった(宇多源氏・近江源氏)。
導誉の京極氏も,そして16世紀に南近江を支配して信長軍に攻撃された六角氏もこの佐々木氏が祖である。
因みに,京極とは,京の端を表す。
京都市街西部に西京極運動公園があり,かつて阪急がよく試合を行った西京極球場は,その一郭だが,今もこうして名を残している訳だ・・・。


・・・ということで,関ヶ原を越えて近江に入ったところでストップ・・・。
やはり暴走は止まらない・・・。





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