關西紀行,其之六:東西対立は世の常・・・??
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2014/01/09 21:58:40
京都駅烏丸口の地下街ポルタで昼食にする。
一昨年食したラーメン熊五郎の隣の杵屋なるうどん店である。
下の子がうどんを食したいというので,決めた。
何と大盛り無料。
1.5玉食べて満腹。
何か見覚えが・・・と思ったら,3年前にも入った店だった。
丁度正午近かったせいか,我々が出る頃には行列ができていた。
程良くコシのあるうどんが美味であったことは言うまでもない。
そこから,塩小路通りをに少し歩いて,堀川通りとの交差点に,今回の宿を決めた。
今まで泊まったのは,すべて平成になってからできた新しいホテルばかりだったが,今回は,1960年代後半の築。http://www.rihga.co.jp/kyoto/index.html
しかし,実に小綺麗で快適な空間だった。
ま,4人部屋ということと値段に釣られたのだが,15分おき八条口までシャトルバスが走っているし,歩いても駅から10分かからないし,食事も良かったし,何よりもクルーが皆親切だったし,正解だったようだ・・・。
ホテルに荷物を預け,最寄りのバス停である七条堀川へ。
ホテルのおねいさんからは,駅のバスプールへ行くよう進められたが,少しでも時間を短縮できるなら・・・と,西本願寺近くのバス停へ行き,隣の円頓山興正寺なる寺を見学。
今知ったのだが,元々は本願寺の脇門跡だったそうで,後に独立したという。
堂々たる桃山様式の山門が,江戸初期のものであることを感じさせる。
勿論,本願寺同様浄土真宗だが,寺域は大層広い。
隣の西本願寺の寺域は,とんでもなく広いのだが・・・。
5年前,金閣を目指して,今回同様堀川通りを北上するバスに乗った際,先ず目に飛び込んできたのは,この西本願寺であった。
ロハで見学できるというのも,魅力である。
3年前,雨に降られて,駅から歩ける範囲・・・ということで,東西本願寺を梯子したことがあったが,一度は見ておくべきだろう・・・。
ところで,何故に東西本願寺に分かれているのか。
これこそ,江戸幕府のとった高等戦術である。
とにかく,信長を散々苦しめただけではなく,家康など地元三河の一向一揆には,命を失う寸前だったという(その中に本多正信が居たらしいが)。
何せ,欣求浄土(あの世こそ憧れ)厭離穢土(穢れたこの世は嫌い)と,死ぬことを恐れないのが,一向宗徒(浄土真宗本願寺門徒)である。
こういう連中を相手にしたら,それこそ命が幾つあっても足りない・・・。
信長は,大坂石山立ち退きを和睦の条件としたが,本願寺十一世の顕如は,一向宗徒の多い紀州雑賀へ退隠。
その際に,石山退去を頑なに拒否した長男教如を義絶する。
顕如を支持する穏健派と,教如を戴く強硬派に分かれたことが,東西本願寺分立の端緒だった。
秀吉の世となってから,顕如は貝塚本願寺を経て,大坂天満へ移り,さらに現在の七条堀川の地に寺域を移す
文禄2(1592)年に顕如が入寂すると,義絶を解かれた教如が本願寺を継いだが,顕如室の如春尼(教如実母)は,顕如の意志ということで三男の准如を後継にすべく秀吉に直訴。
秀吉は,その命を教如に伝え,教如も一旦従う意志を示したが,周囲の強硬派が秀吉に異議を申し立てる。
それによって,秀吉の怒りを買った教如は,本願寺の一隅へ追いやられることとなった。秀吉没後,かねてより家康に接近していた教如に,六条烏丸の地が与えられる。
これが東本願寺(真宗大谷派)の誕生である。
東西本願寺の対立と分立を巧みに利用した幕府により,かつての政治的影響力は全く無くなったとも考えられ,以後二派に分かれたまま現在に至るという訳である。
しかし,この教如という僧は,かなりの硬骨漢というか,相当骨のある男だったようだ。
石山本願寺が,和議とは言え信長に屈した形で大坂を退去する際も徹底抗戦を標榜し,雑賀衆の庇護の元,紀州に潜伏したり,秀吉時代に隠遁させられても布教活動を展開したり,最後は別の本願寺を建てることに成功したり・・・と,なかなかドラマティックな人生である。
家康が教如に理解を示したのは,東西本願寺の分立対立による共倒れを企図して・・・という私が上述した高等戦術とも言えるが,結果的に両本願寺とも400年を経て現代に至るわけだから,結果的に良かったのでは・・・という考え方もあるだろう・・・。
・・・と思っているうちにバスが来た・・・。
市内均一区間のフリー乗車券は500円。
一回220円だから3回乗れば元が取れる。
但し,大原や鞍馬といった遠隔地は勿論,嵯峨・嵐山エリアも圏外となる。
結果的に,この日3便に乗ったので,元は取ったのであるが・・・。
・・・ということで,本願寺で止まってしまった・・・。
余計なことをついつい書いてしまうのが,悪い癖なのだが,治りそうもない。
次回は,洛中紀行が書けるのだろうか・・・。
(本家に,興正寺の画像を掲載しました。mixiとFacebookには,初日の画像を掲載しています。)
↓
https://www.facebook.com/damon.koshi#!/damon.koshi/media_set?set=a.426538067473698.1073741845.100003525255127&type=3
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000088452834&owner_id=32578624
それは何よりでした。
まだ多分続きますので,宜しかったらご覧ください。
京都駅近辺だと,今回のリーガロイヤルホテルは良かったですし,反対の八条口にある都ホテルも○です。
但し,別館の「サウスウイング」ですが。
烏丸三条に近いモントレ京都も極上でした・・・。
東西というか,戦後の占領政策に,米ソによる分割案があって,米が握りつぶしたそうですね。
もしその通りになったら,ドイツやヴェトナム,朝鮮半島と同様の悲劇が起こったことでしょう・・・。
明治維新を是とするか否か,という観点もありますが,仰るように幕府の統治に仏教が影響したら,宗教対立によって内戦となって,欧米列強に食い物にされたかもしれませんね・・・。
いや,私もイメージできませんね。
既に秀吉時代に兵濃分離が進んで,本願寺は武装勢力としての力は失っていたでしょうし,名跡が残ったのは良かったと思いますし・・・。
ホテル情報や旅行記が参考になりました。
という SFを 想像してしまったのだけれど、
その具体像をイメージするには 詩蘭の教養の素材ではまるで足りません~^^
コシさんなら かなり具体的にイメージできそう♪
明治維新が無いままに、仏教の分割が 幕府の統治に強く影響し(ローマ教会のように)
神道でなく、仏教権威と武士統治の結託した権力機構が、そのまま近代化を進めたとしたら…どんな近代日本に?