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關西紀行,其之七:門跡寺

堀川今出川でバスを降り,乗り換える。
堀川通りを只ひたすら北上するだけだったのだが,今出川通りから北野天満宮の前を通り,一条通から,足利三代の木像がある等持院の前を通り,嵐電(旧名京福電鉄)を渡ると,衣笠山の麓のきぬかけの路へ出る。
本日の最初の目的地である仁和寺は,そのきぬかけの道沿いに有った。


まずは,その堂々たる二王門が目を引く。
平安様式の,見事な造形だ。
それをくぐると,広大な寺域への長いエントランスだ。
五重塔の姿も美しい。
慶長年間に建立された皇居紫宸殿を移築したという国宝の金堂も,重厚なただずまいだ。


敢えて,駅やホテルから遠い北山の仁和寺を選んだ理由は,ある1人の人物に対する関心からだった。
皇太后宮亮平経正(?~1184)。
平清盛の弟である経盛(1124-1185)の長男である。
「平家物語」における後半の主役は,富士川や倶利伽羅谷の戦いの総大将であった維盛だったり,都落ち後は実質的な総指揮官だった知盛だったり,平氏一門随一の豪傑である能登守教経だったりすると思うが,この経正は,薩摩守忠度と並ぶ風流の徒として描かれる。
仁和寺は,光孝~宇多天皇によって創建された真言宗の大寺であるが,代々皇族が門跡を務め,朝廷の庇護を受けてきた。
経正は,一門の中でも琵琶の名手として知られ,幼少期を仁和寺で過ごし,仁和寺五世門跡覚性法親王より銘器青山を下賜されたと言われ,歌人としては,忠度同様,千載集の編者である皇太后宮大夫俊成との親交もあったという。
北陸へ木曾義仲軍との戦いに赴く際に,戦勝祈願のため竹生島に詣でたエピソードは「竹生島詣」として知られ,一門都落ちの際は,仁和寺へ立ち寄り,覚性法親王に青山を返したことも「平家」の他,「源平盛衰記」でも語られている(尤も,覚性法親王は,それより15年程前に没しているので,第六世の守覚法親王に返したのでは,と思われる)。
叔父に当たる忠度が,俊成のもとへ訪れたことと被る。
そして,さらに言うなら,この風流将軍とも言うべき2人は,いずれも一ノ谷の戦いで,散っているのである。


気の毒なことに,経盛の子はいずれも一ノ谷で討ち死にしている(らしい)。
長男の皇太后宮亮経正,弟の若狭守経俊,無官太夫敦盛の3人である。
経正は,武蔵国の住人である川越重房の手勢に討たれ,経俊は,従兄弟の尾張守清貞・
淡路守清貞と共に敵陣に突入して討死,敦盛は,熊谷次郎直実に討たれた。
父である経盛は,翌年一門と共に壇ノ浦で入水して果てるが,子の殆どを失ったその心中は,察するに余りある・・・。
私は,今まで経盛の長子が経正で,次子が経俊,そして三男が敦盛と思ってきた。
ところが,確かに経正は長子であったが,経俊との間には経兼,広盛という男子がおり(彼等のことは全く分からない),経俊と敦盛の間にも,経光なる男子が居たらしい。
おそらく,彼等も一ノ谷か,翌年の壇ノ浦で散ったのだろう・・・。


広大な仁和寺を満喫し,バスできぬかけの路を東に向かう。

次の目的地である竜安寺までバス停は3つしかなく,歩いてもそれまでなのだが,せっかくフリー乗車券が有るので,来たバスに乗った。
これで3回乗ったので,完全に元を取ったことになる。
それにしても,きぬかけの路とは,何とも風流な呼称だが,この名称が制定されたのは平成3年というから,随分と新しい。
一般公募だったというが,他の候補は,「みやびのみち」,「つれづれのみち」,「やすらぎのみち」,「古都のみち」・・・というから,やはりどう考えても一番相応しい名称だったと言っても良いだろう。
因みに,1963(昭和38)年に開通したというから,京都でも新しい部類だろう。
当初は,単に観光道路と呼ばれていたそうだ。


竜安寺前で下車。
バスは満員に近かったが,殆どが金閣へ行くのだろう。
金閣は修学旅行で見たし,5年前にも見せている(銀閣と同時に見せて比較させようと目論んだが,銀閣が工事中で,目論見は果たせなかった)。
ま,私としては,1回見れば十分だ。
逆に銀閣は,何度行っても素晴らしい。
門前町の賑わいも悪くないし(丹波黒のきんつばが美味),何よりも東山山塊を借景にしたような庭が良い。
疎水沿いの哲学の道を経て,永観堂から鹿ヶ谷通りを抜けての南禅寺へのアプローチも,程良い散歩が楽しめる・・・。


・・・ということで,これも高校の修学旅行以来の竜安寺へ。
遙か過去の印象とどう違うのか,変わらないのか・・・。

(本家に,仁和寺の画像を載せました。宜しかったら,ぜひ・・・)
                   ↓
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/93b6a5bdc39b68005897fd814d2bf798

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2014/01/19 17:00
サモワール卿,今晩は。
詳細なコメント,ありがとうございます。
経正は,鎌倉にて風流の徒としての姿を板東武者に見せた重衡,皇太后宮太夫俊成に別れを告げた忠度,定家に詠草を託した行盛と並ぶ第一級の文化人だったということでしょうね。
仰るように,父である経盛は,生母の身分の関係で,他の清盛の兄弟よりも出世が遅かったのでしょうね。
しかし,一ノ谷で討死した当時,経正は幾つだったのでしょうね・・・。
あるところで41というのを読んだ気がしますが,父の生年と掛け合わせると,せいぜい30代半ばかな・・・と思ったりします。
敦盛は17でしたし・・・。
間に兄弟が居たというのは,私も初耳でした。
仰るとおり,治承以前に没した人も居たかも知れませんね。
保元の戦いの先陣となった基盛(清盛次男?)も,早世していますし・・・。

きぬかけの路の傍の学校を出られたのですね。
北山界隈は西園寺家で,龍安寺付近は徳大寺家の領地だったのでしたっでしょうか・・・(自信なし)。
確かに,因縁というか,歴史のロマンを感じますね。
京都で学生生活を送っていれば,私の人生はきっと今と違うものになったことでしょう・・・。
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2014/01/14 13:45
「平家物語」に触れ始めたばかりのころ、「平家物語」はあくまで文学作品であって史実とは違う部分も大きくキャラ設定も物語らしく改められている部分も多々あるという話をきいて少し残念に思っていた所、「建礼門院右京大夫集」で経正が琵琶を弾くシーンが出てきて嬉しく思った事を思い出しますw
経盛の家系は、おそらく経盛の生母の身分の関係でしょうけど、政治家としては名を残すことはありませんでしたが、風雅な趣味人としては一級だったようですね。勢いある一門に属し(つまり経済苦とは無縁)ていながら、主流から外れているため権力闘争とも縁遠い。太皇太后多子を通じて徳大寺家と縁が深いことを考え合わせると、もうこれはなるべくしてなった感じがしますね。
都落ち直前の情景は経正と忠度が有名ですが、「平家公達草紙」には萱斎院式子内親王御所を訪れた本三位中将重衡が登場しますし、左馬頭行盛も藤原定家に詠草を託していますね。

っていうか、僕も経正兄弟は三人だと思っていました(+_+)これは、或いは源平合戦以前に亡くなった人もいる可能性があるのではないでしょうか。

きぬかけの路とは懐かしい。傍らの学校を卒業したものでw
今の鹿苑(金閣)寺周辺は足利将軍家北山第跡として有名ですが、そもそもは西園寺家の土地で、西園寺という寺院付の大邸宅(北山第)。鎌倉幕府崩壊で昔日の勢いを失い、当主まで後醍醐天皇方に殺害され、尾羽打ち枯らしていた西園寺家が手放したあの土地を、数百年後に西園寺公望が創設した大学が奪還していくとは、何とも因縁めいたものを感じますw
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2014/01/13 10:22
ましろさん,こんにちは。
コメント,ありがとうございます。
仁和寺は,もう二王門を見ただけで引きつけられましたね。

竜安寺は,確かに一期一会だと思います。
以前に見たのが,何せ高校生の時だったので,印象も変わるかと・・・。
時間にゆとりがあれば,エントリしたいと思います。
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2014/01/12 23:30
こんばんは。

仁和寺、3回ほど、訪れています。何だか、ひどく懐かしい。
歴史のある、お寺、ですね。

龍安寺のお庭は、毎朝、若い僧が庭の模様を描くとか
そういう意味では、一期一会の石庭ですね。
365日、同じ庭であるようで、同じではないから。




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