Nicotto Town


koshiのお部屋分家


關西紀行,其之拾:伏見桃山大暴走録・・・

外泊する度に思うのだが,どうもベッドというのは寝づらい。
普段,煎餅布団に寝ているせいか,どうも落ち着かず,眠りも必然的に浅くなる。
前の晩は,疲れて酒も程々にして(コンビニで,見たことない発泡リキュールを買い,2本空けた),お昼前に床に就いたのだが,何と4時半に目を覚ましてしまい,西日本の遅い夜明けまで悶々とする羽目になった・・・。


でもって,さっさと朝食を済ませて,今日の日程・・・と,行きたいのだが,いかんせん家族連れのつらさで,食事にたっぷり1時間かかる。
ま,さすがに老舗のホテルだけ有って,バイキングとはいえ,どれも美味であった。
私は,基本的に和食党なので,ご飯と味噌汁,梅干しにお新香(京名物の柴漬けとか),焼き魚が理想的なのだが,ホテルに泊まったときは,自家製のパンも食すことにしている。また,目の前で直接焼いてくれるオムレツも,すこぶる美味であった。
ベーコンとウインナも,発色剤もろの毒々しい色ではなく,実に美味であり,ここぞとばかりサラダも食したので,完全に満腹となった。
勿論,食後の珈琲も喫した。


・・・でもって,部屋に戻ってからもうだうだしていたので,出発が大幅に遅れて9時半を回ってしまった。
八条口までの無料シャトルバスが15分置きに出ているのだが,大勢並んでいたので(定員は25名)京都駅まで歩くことにした。
ホテル前の堀川通りの歩道橋を渡り,オムロン本社(かつては立石電気と言った電卓で名を成した会社)の横から,油小路通りに出る。
僅か歩くと,道祖神を祭った道祖神社というものを発見した。
「奥の細道」の冒頭にもあるように,道祖神は旅の神である。
よって,お参りをしていく。
信州安曇野の道祖神が有名であるが,この京都の道祖神社もhttp://京都のitベンチャーで働く女の写真日記.com/kiji.html?entry=2013-08-13-01とか,http://merosu.com/post-67.htmlで結構語られているようである。
隣は,明王院なる不動堂があり,祭られた不動明王に拝することができる。
こうした思わぬ発見があるのも,京都ならではである。


京都バスの案内所で,フリー切符を求める。
一昨年,近鉄駅で買ったのは同じ内容で2,000円だった筈だが,1,600円のものもあることを知り,当然こちらにした(最終日に知ったのだが,近鉄だと1,330円のもあるらしい)。ま,近鉄を奈良まで往復して,市内バスは乗り放題。
京都の地下鉄も同様なので,完全に元は取れる。
但し,子供用は無かったので,近鉄往復は手出しにして,奈良でバス切符(乗り放題250円)を求めるようアドバイスされた。
至って親切である。
でもって,バスプールを見て驚いた。
停留所前に人が溢れている。
清水寺方面への発着所と分かったので,東山方面は,近寄らないことにした・・・。


烏丸口から近鉄駅まで,京都駅を横断。
発車間際の急行(運良く奈良行き。大和西大寺での乗り換えは不要)に飛び乗る。
阪急と違って,残念ながらロングシート。
JR奈良線より安いから,良しとしたが・・・。


実は,JR奈良線にしても,この近鉄京都線にしても,沿線の印象は良くない。
京都を出ると,すぐに東寺(教王護国寺)の五重塔が見えるのは良いが,鴨川を渡って,竹田~伏見といった界隈の風景も,特に感興は湧かなかったのが残念だ。
勿論,車窓を楽しめるような車両で無いことも大きいと思うが・・・。
伏見は酒所で有名でもあるし,何と言っても,秀吉の隠居城の伏見桃山城で有名であるが,全く関係のない場所に立つらしい,現代の伏見桃山城にも興味は湧かない。
ま,そう言っても,大阪城や名古屋城も同様・・・となってしまうが・・・。
この伏見城であるが,どうやら秀吉時代に2つあったらしい。
1つめは指月山に築城されたもので,文禄6(1596)年の地震で倒壊した。
朝鮮出兵中の石田三成の讒訴により(といっても,三成からすれば,当然のこととなるようだが)勘気を蒙って,謹慎中だった加藤清正がいち早く秀吉の元へ駆けつけ,勘気を解かれたという所謂「地震加藤」の話があったのは,その時である。
そして二代目の伏見城は,木幡山に建てられた。
関ヶ原の前哨戦で,東軍の鳥居元忠勢が,西軍の大軍を相手に孤軍奮闘して,玉砕したのがこの二代目伏見城である。
西軍4万に対して,東軍は1,800というから,本当だとしたら鳥居元忠以下の兵たちが,如何に奮戦したかが知れよう。
ま,寄せ集めである西軍の士気が上がらなかったということも伝わるが,最後は甲賀勢の内通によって城は落ちる。
元忠を討ったのは,紀州雑賀の住人である鈴木孫一郎重朝(1561-1623)だったと言われる。
つまり,鉄砲傭兵集団である雑賀衆の頭目である。
雑賀衆の頭目は,代々孫一(孫市)を世襲していたと言われるが,大坂石山戦争で信長を狙撃したりして,散々織田勢を苦しめたという孫市は一体誰のことなのか,今なお謎である。
上記重朝の兄である重秀(1541-86?)がそれとも言われるし,重秀の子が重朝という説も有るそうだし,重秀・重朝が兄弟だとすると,その父の重意(佐太夫)も孫一を名乗ったし,重兼(1504-89?)という武士も居た(重兼が長男??)。
私が若い頃填った司馬遼太郎著「尻啖え孫市」の主人公は,一体重秀なのか,重朝なのか,重兼なのか,全く謎である。
年代的には,重秀が相応しいような気はするが・・・。
この重朝,天正13(1585)年の秀吉による紀州征伐後は秀吉に臣従したらしい。
てもって,関ヶ原後は浪人して伊達家に仕えた後,水戸徳川家に仕えて,子孫は家老となって,雑賀姓に戻したというから面白い。
紀州雑賀の孫市の末裔は,東日本に残ったのである・・・。


・・・ということで,京都から伏見までしか進みませんでした。
またしても暴走モードです。
このまま,奈良に着けるのでしょうか・・・??

で,画像を6枚,本家にうpしました。
宜しかったら,ぜひ・・・
     ↓
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/dbc33a1398b56c01e5a9b78fccac81fb

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2014/01/26 09:39
サモワール卿,おはようございます。
やはり,御存知でしたね。
あのようなものが,さりげなく街中に散在しているのが,京都の大きな魅力ですね。
道標にしても然り,祇園の東で水量豊かな白川を渡る橋然り,とにかくさりげない発見が妙に嬉しかったりします。
西八条というと清盛の館と思っていましたが(六波羅か),時子の館だったのですね。
六孫王神社は,新幹線の高架の下ですね。
最終日,東寺からホテルまで歩く途中,かかめたようで残念です。
ストリートビューで行ってみたら,コンクリートの塀で,内部は分かりませんでした。
六孫王会館なるものも有るようですね・・・。

以仁王は,八条院(暲子内親王)の猶子でしたので,挙兵に際しては,八条院の援助があったのでしょうね。
各地にあった荘園は,令旨を広めるのに一役買ったことでしょうし,清盛も露骨に手は出せなかったことでしょう。
京都駅の八条口にも,そのような歴史が眠っているあたり,さすが・・・と思います。

梅小路は,修学旅行で行ったきりですね。
スワローマークのC62を見ましたが(後付けです),山陰線のDD54を見たのが,今となっては貴重でした(非電化時代)。
日本海に乗られたとは羨ましい。
私は,北斗星,はやぶさ,富士,出雲,瀬戸に乗りました。
能登は,併結の一般客車でしたし,あけぼのとかは,ついぞ乗らずじまいでした・・・。
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2014/01/20 10:38
あの道祖神、気が付かれましたかw
あんな街中なのに…あれぞ京都という感じがするんですよね、僕には。
京都って、古都の佇まいを求めて歩くと、やっぱり興醒めしちゃう事も多いんですよね。
でも逆に、何も考えずに歩いていて、ふと路傍を眺めると「なんじゃこりゃ」ってなものが溢れている。家並みにしたって、立札にしたって、道標にしたって、地蔵にしたって。

リーガ・ロイヤル近辺と言えば、現在の梅小路公園に相当する西八条(平時子所有)邸跡と六孫王神社というまさかの源平近所(とはいっても、いざ歩くと結構かかりますが)コラボが有名ですね。あと、京都駅八条口は八条院御所跡でもあり、以仁王事件のもう一つの舞台でもありますね。

梅小路公園と言えば、もうじき鉄道博物館が出来るんですよねえw
青森所属の最期のプルマンA寝台を梅小路で展示するという話も聞きましたがどうなんでしょうか。僕が最後に乗った「日本海」の車両はオロネ24-2でした。
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2014/01/19 21:13
ましろさん,今晩は。
お読みいただき,光栄です。
この手の話題なら幾らでも・・・(迷惑)
伏見については,多分まだ書きたいことがあります・・・。
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2014/01/19 19:35
こんばんは^^

いままで知らなかった歴史的な、お話がたくさん出てきて、どれも興味深いです。




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