Nicotto Town


koshiのお部屋分家


關西紀行,其之拾参:有楽町で会いましょう・・・

新薬師寺金堂の本尊,薬師如来像と十二神将像に暫し見入る・・・。
特に十二神将で,最も有名且つ最も激しい造形の伐折羅(バサラ)大将像に,完全にやられる・・・。
何という美しさ,何という激しさ,そして何という造形・・・。
これが,1,300年近い時空を経て,二十一世紀に齎されたこと自体が奇跡であり,一期一会の邂逅である・・・。
本来は,薬師如来を守護する役割の神将故に,厳しく激しい表情をしているのだろう。
他の十一体も,極めて魅力的な造形をしているので,ぜひ,新薬師寺のwebサイトを見て,味わっていただきたい。
残念ながら,写真に収めることは不可能故に・・・。
十二神将であるから,干支に因んで12の方位を守護していることになるのだが,この12という数字の妙は,和洋東西を問わない。
時刻の十二進法と干支,黄道十二星座とか,偶然の符合なのだろうか・・・。


前後するが,こぢんまりとした境内へのアプローチも素晴らしい。
放生のある庭園も,小規模ながら美しい造形だ。
パンフレットを見て知ったのだが,何と織田有楽斎によるものだという。
織田有楽斎(1547-1622)-俗名は長益。
信長の弟である。
尾張時代,母(土田御前)に担がれて,逆に信長によって斬られた勘十郎信行とか,丹波柏原藩主となった三十郎信包(老犬斎。「江」にも出てきた),伊勢長島一向一揆によって小木江城を攻撃されて討死した彦四郎信興等よりも下の弟になる。
本能寺の際は,二条城に居たが,首尾良く脱出して,安土や岐阜に走ったという。
秀吉政権下では,甥に当たる織田信雄に仕え,小牧・長久手の戦いでは,秀吉軍と戦った。信雄改易後は,秀吉の御伽衆となり,関ヶ原では東軍に参加。
その功によって,大和に3万2千石の大名となる。
おそらく,江戸初期のこの時期に庭園を造ったのたろう・・・。
長らく淀君の庇護者として,大坂城内に在ったが,夏の陣の前に大坂を退去し,今度も東軍となる。
武将としての働きは,然程伝わっていないが(関ヶ原では,石田勢や宇喜多勢とかなり激しくやり合っているようだ),やはりこの有楽斎を語る上で最重要なのは,利休十哲の1人という茶人としての評価だろう。
当時,第一級の文化人であったことは疑いない。
そして,東京に今尚名を残す有楽町は,この有楽斎が語源となっている。
現在の数寄屋橋付近に屋敷があったという。
大阪にも有楽町があったが,地番変更で消滅の憂き目にあったそうだ・・・。


名残を残して,新薬師寺を辞す。
先程の大通りより2本南の路地を歩いて,破石町のバス停へ戻る。
この日の白眉は,新薬師寺の伐折羅大将もだが,何と言ってもこの街並みであろう。
格子の美しい家並みが続く沿道は,昭和にトリップしたような印象で,歩いていて飽きない。
何よりも,人通りが殆ど無く,何とも閑寂な雰囲気を醸し出しているのが良い。
ちょい南のなら町も良かったし,街中の小西さくら通りとかも,昭和を感じさせる街並みが私のツボだった・・・。


待つ間もなく来たバスに乗る。
歩いても良かったのだが,何せ乗り放題フリーパスという強い味方があるので,使わないという手は無い。
いよいよ,春日大社から東大寺大仏殿に至る,奈良の鉄板ルートが始まる。
奈良に来たら,絶対ここと決めているコースで,何度来ても飽きない。
そうした意味では,万人に勧められるコースでもある。
春日大社の長い参道から,次回は始まることになろう・・・。

本家は,リンクと画像入りです・・・。
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