Nicotto Town


koshiのお部屋分家


あの日,あの時・・・

3年が経った。
丁度,今日のように,粉雪が風に舞った日だった。
仕事場に籠もって,何日もかかった報告書をようやく仕上げ,安心したせいか不意に用を足したくなり,終えてトイレから出て,広い廊下を仕事場まで歩いている途中だった。
カタカタという微細な揺れが,やがて振幅を増し,轟っという地鳴りに変わり,あちこちで物の落ちる音や倒れる音がし始めたと思った途端,照明が落ちた。
以下は,
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/275267781b9cdb6b8080c87041cb9641
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=430582&aid=25373244
に載せた通りである。


クライアントへの対応に追われ,ようやく職場に戻ったのが5時過ぎで,小雪が舞っていた。
市の広報車が,
「避難所に行ってください」
と,意味不明なことを叫んだせいか,避難所に当たる小学校の体育館には,殆ど被災していないにも関わらず,地域住民が集まっていた。
そうした中,ようやく勤務解除となる。
携帯は,UPSが動いた最初だけ辛くも通じていたが,翌日には全く不通になった。
私は,前夜に充電を忘れ,相方は家に置いていくという失態を演じたので,お互いの消息は全くつかめなかった。


そうした中,下の子が通う保育所に向かう。
途中,地中のガス管が破裂したらしく,道路はガス臭が充満していた。
地雷原の上を歩いているようで,極めて不気味だった・・・。
下の子は,保育所の隣の緊急避難所である小学校の体育館に居た。
私が一番最後のお迎えだったようで,えらく迷惑をかけてしまった。
この時点で,7時を少し回ったあたりだったと思う。
実家の両親に顔を出し,信号が消え,コンビニに人がたかっている道を急ぎ,ようやく帰宅したのは,8時前後だったと思う。
相方も帰宅しており,上の子は明日卒業式というので部活もなく午前授業ということで,友達4人とTVゲームをしていたらしい。
パソコンデスクの上の棚から,プリンタが数m跳んだのを見たと言っていた。


夕食は,前夜の残りのご飯と缶詰で,慌ただしく食した。
金曜ということで,その日の夜に食料品の買い出しに行き,ガソリンを入れようとしていたことが,すべて裏目に出てしまった・・・。
大きな仕事を1つ終え,本来楽しい筈の週末が,180°暗転。
蝋燭と懐中電灯だけが頼りの,閉ざされた漆黒の闇が待っていた。
こういう時は,体力を温存するために寝るに限る・・・ということで,親子4人で川の字になって寝た・・・。


以上が,3年前の状況である。
翌日,多くの情報が飛び交う中,市東部の沿岸部や三陸沿岸,そして福島県の浜通りが壊滅的な打撃を受けたことや,福島第一原発の被害を知ると共に,交通インフラも大打撃を受けたことを知る。
物流が途絶え,復旧しなかった場合は,最悪栄養失調や餓死もあり得る・・・と,暗澹たる気持ちになったのも,この時だし,ひもじさを癒すこともできず,空きっ腹を抱える日々が一週間近く続いたのも,この時だ・・・。


以来3年,喉元過ぎれば熱さを忘れる,ではないが,紛れもなくあの日の思いが風化しつつあるのを感じる。
否,私なんか被災していないに等しいから,無責任にそう思うのかも知れない。
大切な人を失った方々なら,そんなことを思う筈も無かろう。
故に,あの時覚えた暗澹たる気持ちを忘れてはならないと思う・・・。


今尚,20万人を超える人々が,避難所や仮設住宅での不自由な生活を強いられているという。
唯々,そうした方々の心からの安息を願わざるを得ない・・・。


・・・ということで,今日に相応しいと思われる1曲を貼る。
一昨年は,ブルックナーの遺作とも言うべき第9交響曲,昨年は,ブラームスのドイツレクイエムで哀悼の意を表したが,3年という節目に当たる今年は,何にしようか迷った・・・。
ヴェルディのレクイエムの第2曲である「Dies Irae(怒りの日)」にしようかとも思ったが,劇的にして激しすぎるので躊躇。
より穏やかなフォーレのレクイエムは,どうも季節柄合わないような気もする。
そこで,救済を求める以下の曲を貼ることにした。


http://www.youtube.com/watch?v=JWP9byshDH4&list=RDtsm6lDuM3JA
http://www.youtube.com/watch?v=qSK8qFv1MrA&list=RDtsm6lDuM3JA
http://www.youtube.com/watch?v=jeAw8ycjnro&list=RDtsm6lDuM3JA
http://www.youtube.com/watch?v=tf5fM1i3MGQ&list=RDtsm6lDuM3JA
Symphony No. 2 in C minor, "Resurrection"~5th Mvt(Gustav Mahler 1860-1911)
交響曲第2番ハ短調「復活」~第5楽章より(グスタフ・マーラー 1860-1911)

auf der nach KLOPSTOCKS HYMNE "DIE AUFERSTEHUNG"
                     ~クロプシュトックの賛歌『復活』に基づく

O Schmerz! du Alldurchdringer!
Dir bin ich entrungen!
O Tod! du Allbezwinger,
Nun bist du bezwungen!
Mit Flügeln, die ich mir errungen,
in heißem Liebesstreben werd ich entschweben      
Zum Licht, zu dem kein Aug gedrungen.
おお、あらゆるものに浸み渡る苦痛よ、
私はおまえから身を離した!
おお、あらゆるものを征服する死よ、
いまやおまえは征服された!
私が勝ち取った翼で
愛への熱い欲求のうちに私は飛び去っていこう、
かつていかなる目も達したことのない光へと向かって!


Mit Flügeln, die ich mir errungen
Werde ich entschweben.
Sterben werd ich, um zu leben!
Auferstehn, ja auferstehn wirst du,
mein Herz, in einem Nu!
Was du geschlagen,
zu Gott wird es dich tragen!
私が勝ち取った翼で
私は飛び去っていこう!
私は生きるために死のう!
よみがえる,そうだ,おまえはよみがえるだろう、
わが心よ,ただちに!
おまえが鼓動してきたものが
神のもとへとおまえを運んでいくだろう!   (以上,訳者不詳)

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2014/03/22 20:24
詩蘭さん,今晩は。
私のところは沿岸部ではないですし,標高200mを超える高所に居たので,被災していないに等しかったですが,市内東部では,津波によって死体が山のように浮いていたという話を,翌日聞きました。
岩手,宮城,福島3県の沿岸部は,何処も壊滅的な打撃を受け,今尚3万人近い人々が,不自由極まりない避難所ぐ暮らしを・・・と聞くにつれ,心が痛みます。
仰るとおり,あの地獄のような日々から,私たちが勝ち取ったのは,防災力という翼だと思います。
物理的に,精神的に,備えをすることで,被害を防ぐことはある程度できる筈です。
今後想定される東海地震や,南海トラフ地震に備えることができれば・・・と思いますね。
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2014/03/22 20:03
まさるさん,今晩は。
あの時感じた,このまま物流が回復しないと・・・という暗澹たる気持ちと,地震の3日後に電力が回復し,ネットが繋がったときに,こちらで多くの方に励ましの言葉をいただいたことは,今も鮮明に覚えていますし,これからも忘れないと思います。
遠く離れた山陰の地でも,人々の思いは同じですね。
気持ちが繋がっているというのは,ありがたいことです・・・。
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2014/03/22 19:24
うさりん♪さん,今晩は。
関東も,一時はライフラインが分断され,大変だったのでしたね。
夜に電力が復旧というと,私はかつての宮城県沖地震を思い出します。
今回は,あの時と違って,三日三晩闇の中でしたが,辛い思いをしたのは,関東の方たちも同様でしたね。
私も,寝るしかなかったので,体力を落とさぬよう,7時に寝ていました。
3日後に通電して,TVを見たときは,私も絶句でした・・・。
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2014/03/22 19:03
たいめいさん,今晩は。
そうでしたね。
あの時期,大変な思いをされたことを,私も覚えております。
丁度,お知り合いになって間もない頃でしたね。
本当に,大変だったことと,お察しいたします。
私の父も,最後は寝たきりとなり,体力が落ちて数ヶ月で逝きました。
経過がよいかな・・・と思った矢先でしたので,分からないものですね・・・。
酔っぱらうのも,時には必要でしょう(私はしょっちゅうですが・・・爆)
つらい時期,というのは私にもあります。
それでも,前を向いて生きて行かなくてはならないのが,人生ですね・・・。
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2014/03/14 01:34
コシさんのところはタイヘンでしたね。。
詩蘭にもリアルの友人、ニコやmixiなどを通したネットの友人が、宮城や福島方面にもいて、
電話は通じず、ネットを通し互いの状況を伝え合っていました。
宮城の友人たちには、コシさんのように、インフラが止まり、家が崩壊した人もいた。

東京圏は、揺れは大きく、建物の崩壊で亡くなられた人もいたけれど、
東北や北関東に比べれば、しばらくの不便はあったにせよ、ずいぶん楽だったのでしょう。
しかしその後の福島原発の 日ごとに拡大する事故の規模と、
まだ、放射能の知識もみんな少ししかなかった段階での報道やネット情報の肥大化で、
不安は日ごとに増大し、いきなり西日本方面の親類などへ逃げる友人知人もいた。。。

そうした全てが 記憶の中で薄れながらも、この3月11日という日は、
それぞれの人の忘れえぬ思いと共に、これからの良き指標としてあり続ける…
次の地震には、想定外ではなく、3・11の無数の記憶を糧に立ち向かわねばならないのだし。。
その記憶こそ、「勝ち取った翼」なのでしょうから。
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2014/03/12 19:34
あの日から3年・・・。時の経つのは早いものですね。
まったく被害のなかった俺ですが、あの日テレビに映し出される地獄のような光景は、未だに忘れることができません。
昨日は被災地から遠く離れた鳥取の現場の屋上で、震災の発生時刻になると皆が一時作業の手を止め、亡くなられた方のご冥福を改めてお祈りしていた光景を見ました。
時は経てど、場所は違えど気持ちは1つ。
あの日感じた気持ちを再認識した1日でした。
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2014/03/12 09:13
私は仕事休みでのんきにニコタしてた時でした。
あ、地震!とテレビを付けたと同時に停電。
揺れがどんどん大きくなるので布団へ避難して、
しばらく様子見てたけど電気はつかないので、
お弁当を買ってきて、ずっとひとりで全く情報のない家で引きこもっていました。
夕方になってもまだ停電だったので、暗くなる前にさっさとお弁当食べて、
暗くなったら、もう寝るしかないという感じでお布団へ。
何が起こってるのか知らなかったので、のんきでした。
でも揺れ方のタイプで、遠くで大きな地震があったんだろうという感じはしてましたが、
まさかあそこまでとは思わず、夜中に電気ついてテレビ見た時は絶句でした。
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2014/03/12 01:09
3月の雪・・・3年前もそうでした。
3月9日は私の父親の死んだ日です。
よく覚えていませんが、すぐに葬儀は出せず葬儀場の控えの部屋で葬儀の日を待っている間にあの3月11日
地震に驚いてか・・・親戚、や姉も皆帰り、私は父親の遺体と二人っきり。
余震の続く中、ぼんやりと被災地の様子を映し出すテレビを独りで見ていました。
私を心配してくれる親戚はついに一人も居ませんでした。
なんだか何が現実なのか解らないような・・・
世の中が大変なのはぼんやり解っていたようですが、こんな時にお葬式を挙げられるのか?
誰も来てくれなかったらどうしよう?!
そんなことを独り考えていました。
私の誕生日が3月8日。父親の死んだのが3月9日。
父親の死ぬ前日。せめて父親が入院している時ぐらいゆっくりしようと、ちょっと顔を見て早々に返ったあの日。
「もう帰るのか?」といわれたのが最後。
酷い事ばかり言っておいて、最後には、私に少しばかり後悔させて、忘れることも出来ない日に死んで・・・
私はこの時期辛いです。

ごめんなさい酔っ払っています。。。。




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