加越紀行-其之壱:北近江暴走之記・・・
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2014/04/16 21:43:30
年度末の慌ただしい時期に行ってきただけに,バタバタしていた印象は拭えないし,帰郷後,高熱を発して年度頭から倒れたり,それから随分日が経ったりしたので,どの程度のものが書けるか,自信は全く無いのですが,旅の印象を記録するという行為は,決して無駄とは思われないので,取り敢えず書いてみようかと思います。
とは言え,私の書く文章ですから,あらたぬ方向に暴走したり,つまらない寄り道をしたりすることは必至ですし,たった2日の旅程に,一体どれぐらいのページを費やすのかも,皆目見当が付きません。
ま,私が書く文章なので,また,しょうもないひと書いてやがんな・・・と,看過していただければ宜しいかと思います・・・。
そして,今回の旅行は,旅行とは言えない内容の部分が大きかったことと,逆に貴重な1人の時間が,久々にたっぷり有ったことが,今までにない体験でした・・・。
東北新幹線と東海道新幹線の印象は,以前と重複するので,省きたいと思います。
東北新幹線に1人で乗ったのは,昨年2月の東京出張以来で,下りの東海道新幹線に1人で乗ったのは,何と独身最後の年となった95年3月の丹後・但馬紀行か,その前年10月の奈良出張(300系ひかりに乗って,得した気分だった)以来と思われます・・・。
東北新幹線はE5系,東海道はN700系でした。
折からの好天で(翌日は,見事に予報が当たって崩れた),富士山がよく見えたことと,名古屋停車後,織田信成が名誉城主という清洲城を確認したことを,付記しておきます・・・。
米原駅のホームに降り立ったのは,多分初めてだと思う。
平成3年GWに,4月に逝った母方の伯父に線香をあげる為に,北陸線を北上した(完乗成る)時は,名古屋でL特急の「しらざき」だか「北越」に乗り換えたので・・・。
今回は,一族を代表して,2月に急逝した従兄弟に香華を手向けるのが,最大の目的である。
前回は,83歳の母を91歳の伯母に会わせるのが目的で,体力を考慮して小松まで飛行機を押さえたのだが,今回は私1人というフットワークが軽い立場での北陸行故に,不経済を承知で,JRを選択し,宿は敢えて福井ではなく,金沢に押さえた。
だいたい,のぞみ以外の東海道新幹線に乗ること自体貴重なのだが,米原で名古屋始発の特急しらさぎに数分でトランジット出来るというのは,大きなメリットとなった。
仙台を6時過ぎに立って,正午前には福井に着いているのだから,乗り継ぎがうまくいったということだろう。
ひかりからしらさぎに,相当数が乗り換えたが,何とか座ることが出来たのは幸運だった。既に,朝から新幹線車内で宜しくやっていたので,多少気持ちよくなっていたし,1人で空間を占拠していた訳ではなかったので(米原でビールを買う時間は無かった),自粛したが(隣に座っていたビジネスマン風の兄ちゃんは,ビールを飲んでいた),やはり飲みたくなった・・・。
北陸線を北上する際,前回も思ったのだが,東側に望める伊吹山の東斜面が削られていることが気にかかる。
ほぼ山頂まで,車で行くことが出来るようだが,日本史上,多分男として最高の人生を送ったであろうと思われる佐々木(京極)導誉(高氏)の館は,一体どこにあったのだろう・・・。
西日本から発達した低気圧が近づいているため,湖東~湖北平野は,どんよりとした曇天だ。
米原を出て,秀吉が築城して一時山内一豊が城主だった長浜が近づくと,琵琶湖の湖面が見えてくるのだが,少々冴えない・・・。
やはり,琵琶湖には好天が似合う・・・。
長浜の次の駅は虎姫だが(勿論,特急は止まらない),その東側が所謂浅井郷であり,郵便局や市役所支所,運動公園にその名を残す。
虎姫駅の直前に渡るのが姉川であるが,浅井氏三代が拠った小谷城は,次の河毛駅の東方のになる。
その小谷城に対して,秀吉が築いた前哨基地が横山城であり,同盟軍である越前朝倉氏との連携を断つ形となった。
秀吉は,その功によって,北近江の大名となり,当時今浜と言った長浜に築城するに至る。浅井氏は,正親町三条家(嵯峨氏)の氏族で,本姓を藤原氏としたようで,以前述べた宇多天皇の子孫である近江源氏(佐々木源氏)の支流ではなかったと思われる。
また,福岡の大名となった黒田氏は,長浜市木之本町黒田の発祥とされる。
北陸線の木之本駅から,余呉湖へ行く途中あたりと思われる。
そして,この付近一帯は,天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いの主戦場となる。
北近江から越前の国境である狭隘部なので,雪解けを待って南下する柴田勝家軍と,北上する羽柴秀吉軍が衝突するのも必然だったのだろう・・・。
さらにその14年前の元亀元(1570)年,朝倉氏征伐を目指した織田軍が通過したのは,北国街道だったか,西近江街道だったのか・・・。
浅井長政の造反によって退路を断たれるまでは,織田軍は破竹の勢いで敦賀平野を席巻。
金ヶ崎城を瞬く間に落とし,木ノ芽峠を越えて,朝倉氏の本拠地である一乗谷を目指した途端の造反劇であった。
信長の凄いところは,それまでの戦果を,惜しげもなく投げ出して,身1つで逃げたことだろう。
未練たらしく踏みとどまっていては,危険が増大することを誰よりも察知していたからこそ,できた芸当であろう。
しかし,敦賀平野に取り残された織田軍団と,同盟軍である徳川家康軍は堪らなかった。
秀吉が殿軍をして,奇跡とも言うべき退却戦を指揮したのは,この時のことだ。
多分,家康も光秀も勝家も居たことだろう・・・。
越前最初の停車駅は,その敦賀である。
敦賀駅北方の海岸近くに聳えるのが,上記金ヶ崎城である。
この金ヶ崎城にも,上記秀吉の殿戦以外にも,何とも言えない悲史があることを述べようかと思うのだが,既にしてワープロ2ページを軽く越えた・・・。
よって,次回に述べようかと思う・・・。