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加越紀行-其之弐:越前藤島灯明寺畷・・・

敦賀-越前国嶺南地方の中心都市にして,北国街道,西近江街道,鯖街道(若狭湾の鯖を京へ運んだ),丹後街道等が通る交通の要衝として,気比神宮の門前町として古くから栄えた。
金ヶ崎城は,市街地の北方の山城である。
築城の歴史は古く,治承・寿永の内乱期に,木曾義仲の侵攻に際し,平通盛(清盛弟教盛長子)が築いたと言われる。
しかし,金ヶ崎城が歴史の表舞台に登場するのは,何と言っても南北朝の内乱勃発期である建武3(1336)年から翌年にかけての,金ヶ崎城攻防戦である。

後醍醐天皇を比叡山に動座して,京都市中に九州からの足利軍を誘い込んで挟撃するという楠木正成の提案が,動座を嫌った公家たちによって退けられ,勝ち目のない兵庫での迎撃戦に敗れた南朝方は,頼みの綱である楠木正成兄弟を失い,結果的に比叡山に動座。
幾度となく京都市中へ攻め込むものの,名和長年や千種忠顕といった武将(千種は公家か)を失い,遂に足利方との和睦を飲む。
その際,新田義貞に一軍を託し,北陸での勢力挽回を期す。
新田軍は,途中寒波と雪に悩まされながら(南方からの河野軍は全滅したとも),金ヶ崎城に入った。
そこへ,斯波高経や高師泰を将とする足利方の大軍が来襲。
兵糧攻めにあった義貞は,弟脇谷義助と共に城を脱出。
やがて,足利軍の総攻撃により,義貞長子の義顕と尊良親王(後醍醐帝皇子)は自害。
恒良親王は,足利方に捕らえられて,後に毒殺されたという。
南朝悲史の始まりと共に,新田義貞の無念は,越前に籠もっていると言えよう・・・。
新田義貞に関しては,いずれまとまった稿を起こして語ってみたいのだが,越前とは切っても切れない人物となった・・・。


敦賀(以前ここで食した蕎麦は,麺が真っ黒で美味だった)を出ると,かつて日本一の長さを誇った(現在は,青函トンネル)北陸トンネルに入る(かつて,火災事故があった)。
昼寝と読書する以外何も出来ない。
携帯は圏外だし・・・。
そして,武生・鯖江と停車するうちに,天気が良くなっていった。
西から低気圧が迫る中,東へ向かっているのだから当然なのだが・・・。
所々に桜の開花が見られ,北陸路は完全に春が訪れたようだ。
当然のことながら,東北よりはるかに早い。


鯖江と言えば,楽天の外野手である牧田である。
鯖江高校出身とは珍しい(福井商とか敦賀気比が有名なだけに)。
昨年の,日本シリーズ最終戦での駄目押し本塁打は,実に効果的であった。
何と言っても強肩だし,足も有る。
課題と言われたバッティングも,年間通して使えば二桁本塁打は期待できる。
使ってなんぼの選手なので,今年は何としてもレギュラーに定着して貰いたいものだ・・・。
オリックスから移籍した後藤がレフトに入っているようだが・・・(外野も出来るとは知らなかった。二塁手じゃなかったのか・・・)。


・・・などと思っているうちに,最初の目的地である福井に到着。
左に足羽山を見つつ,足羽川を渡る。
かつて訪れたときは,川幅一杯に張ったロープに鯉幟が泳ぎ,圧巻だった・・・。
仙台を出て6時間弱。
あっという間だった・・・。


福井では,3時間半という滞在時間だったが,路線バスと徒歩で伯母の家へ行って焼香し,従兄弟に連れられて,グループホームに入った伯母を見舞い,福井駅前まで送ってもらった後,観光もするという中身の詰まった時を過ごした。
そして,福井で有名な歴史上の人物は少なくないが,上述した新田義貞の墓所である新田塚の前を通過したことが,何とも感慨深かった(芦原街道沿いにあった)。
金ヶ崎落城後,義貞は見事に南朝勢力を立て直し,越前一国を席巻する勢いだったのだが,藤島城攻略戦の最中,少人数での移動中に敵と遭遇。
泥田に足を取られて落馬したところを,額に矢を受けて自害という気の毒な最期だった。
元弘3(1333)年,本拠地である上野国新田郡の生品明神での旗揚げと,分倍河原の戦いで鎌倉幕府軍を破り,あっという間に鎌倉を攻略。
故地を出て5年,後醍醐帝に忠節を尽くした中世の騎士の最期は,あまりに悲しい・・・。


新田義貞の先祖は,八幡太郎義家の子である源義国まで遡る。
義国長子義重は,上州新田郡を領して新田氏を名乗り,次子義康は渡良瀬川を挟んだ対岸の下野国足利荘を領して,足利氏を称した。
つまり,新田氏こそ源氏の嫡系と言っても良いだろう。
義康は,保元の乱にも従軍していたが,乱後程なく若くして亡くなったらしい。
平氏政権下では,新田郡の主たる新田氏の勢力が,足利氏を凌いでいたといえる。
それが逆転したのが,頼朝の挙兵であった。
義重には,源氏の摘系としての矜持があったのだろう。
頼朝何する者ぞ・・・という気概は持っていたはずだ(確か義重の娘が,平治の戦い後に命を落とした頼朝の異母兄である鎌倉悪源太義平に嫁いでいた)。
結果的には,頼朝に従うことになったのだが,素早く頼朝麾下に馳せ参じ,北条氏の姻戚にもなった足利義兼(義康嫡子)との差は明白となり,鎌倉期を通じて御家人としての新田氏と足利氏の差は埋められないほど大きくなってしまった。
義貞が同年代である尊氏(高氏)に敵愾心を持ったのは,当然だったのだろう・・・。
新田氏が上野の一豪族だった頃,足利氏は幕府の要職を務め,三河国の守護となっていた(この時分かれたのが,吉良,細川,今川,仁木・・・といった各氏であったことは,以前述べた)。
尤も,新田氏ものうのうとしていた訳ではなく,上州一円に留まらず,隣接する越後の魚沼地方にも勢力を拡充させていた。
山名,里見,大井田,鳥山・・・といった各諸族は,上州から越後にかけて根を張り,やがて訪れた義貞の挙兵・鎌倉幕府討伐の原動力となり,やがては南北朝の争乱と共に,全国へ散っていった。
四国や九州,そして奥州にも新田氏の一族は残ったのである・・・。
このあたりは,いずれ大いに語ってみたいところなのだが,いずれにしても故地を出て5年,尊氏への対抗心と言われようが,南朝のために忠を尽くした義貞の生涯に対して,限りない哀惜が覚えられてならない・・・。
それにしても,戦前と戦後でこれほど評価が分かれた武将も少ないだろう。
南朝悲史を皇国史観とした戦前の世代にとって,尊氏は極悪人で,義貞は忠義の勇将と語られていたと,昭和一桁生まれの母に聞いた記憶がある。
司馬遼太郎は,秀吉の金ヶ崎殿軍のくだりで,義貞に対して,恐ろしく戦の下手な武将と書いていたが,あっという間に鎌倉を攻略したその非凡な用兵(騎馬による平原戦を得意とする)は,やはり勇将であったと思う。
ま,世の足利贔屓は,鎌倉攻略の新田軍には,鎌倉を脱した栄寿王(尊氏-当時は高氏長子。後の二代将軍義詮)が居たから・・・と言うのだが,凡将に鎌倉攻略は無理である。


・・・ということで,ここまで画像無しの大暴走です・・・。
次は,福井市内観光ですが,これは暴走するかどうか・・・。

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2014/05/11 13:30
>よん様

北陸の諸都市も発展著しいということでしょうね。
どの街も,駅前は近代的でしたし・・・。
福井は,結構昔の家並みが残っていたりしますので,奥様のおうちもあったということでしょうか・・・。
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2014/04/17 23:00
敦賀は2年間住んだけど、駅前は当時の面影は
かけらもないねぇ。
今はグーグルのストビューで見られちゃうので。。

妻が昔、福井に住んでた時の家は残ってたらしいが。。




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