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關西紀行-其之四「湖東にて暴走之記」・・・

朦朧としているうちに岐阜羽島(政治駅だな)を通過し,関ヶ原山中へと突入する。
名にし負う豪雪地帯で,かつて2度ほど徐行運転に遭い,京都到着が30分以上遅れるという事態に陥ったことがあったが,今回はそれも無くうっすらと積もった雪景色の中を西に進んだ。
いつものことながら,ぼうっとしているうちに湖北平野に下り,米原を通過。
3月末にここで下車して北陸線に乗り換えたことが,遙か昔のようで懐かしい。
湖北平野から琵琶湖東岸を南下するうちに雪が消え,美田が広がる(勿論冬枯れだが)湖南平野への道中は,歴史への追想が次々に去来する。


思えば,古来近江は常に政争の舞台となった。
古くは壬申の乱に於いて,大海人皇子(天武天皇)は大津京(近江京)の弘文天皇(即位したとなったのは,明治期だったような・・・)を攻めた。
下って源平の争乱期には,京を守る木曾義仲軍は,大津市南部の勢多橋を防衛ラインにしたし,その38年後の承久の乱に於いても,後鳥羽上皇軍は同様だった。
戦国期というか,織豊政権期には,観音寺城攻防戦(織田信長vs六角承偵),姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉),横山城攻防戦(羽柴秀吉vs浅井長政),信長による叡山焼き討ち,そして関ヶ原の局地戦とも言うべき大津城攻防戦(京極高次vs毛利元康・小早川秀包・立花宗茂)・・・と,思いつくだけでもこれだけある。
東国から西上する際に必ず通るのが近江故に,天下人は必ず近江を欲したし,信長が安土に,そして信長の被官時代の秀吉が長浜に,石田三成が佐和山に居城したのも納得がいく(秀吉と三成は所領だつたからだろうが・・・)。
また,大坂冬の陣に於いて,軍師の真田幸村が立てた作戦は,瀬田の唐橋にて第一防衛戦を引いて時間を稼ぎ,次いで南ががら空きなので守りにくい京都に東軍を誘引して叩くというものだった。
尤も,これは父昌幸が紀州九度山に蟄居してから考えついた策を伝授したものだそうで,昌幸はその臨終の際に幸村にそれを授けたらしい。
そして,軍略家として名を成した(二度に亘って上田城で徳川軍を撃破した)自分ならともかく,当時は父に隠れて無名の幸村がこの作戦を提案しても,諸将に認められないだろう・・・と危惧した。
そして,実際その通りになるのだが,もしこの作戦が遂行されれば,大坂城はあのようなことにはならなかったかもしれない。
この発案を却下したのは,大野修理だったか淀君だったか忘れたが,東軍が大坂に至るまでに疲弊したのは間違い無いし,幸村は得意の草の者(忍者)を使って,奈良街道での家康襲撃まで考えていたというから,歴史の必然は家康に味方したということか・・・。


・・・そんなことを考えているうちに,偶然佐和山城跡を発見した。
近江鉄道と北国街道(R8)と交差した直後だったと思う。
今まで全く気付かなかった。
彦根の市街地の真東に当たり,中腹に佐和山城跡の表示があったので気付いた。
上記の通り,石田三成の居城であり,関ヶ原の掃討戦として,三成の父正継や兄信澄,妻の皎月院の父宇多頼忠・弟の同頼重らが,裏切り者の汚名をそそがんとした小早川秀秋を中心とした東軍に対して,奮戦虚しく自害して落城。
女性たちは,裏の谷に身を投げた・・・という悲話も伝わる。
参議院議員の石田昌宏(公示は石田まさひろ,自民党)は,この信澄の子孫という・・・。関ヶ原の後,この地に封じられたのは,徳川四天王の1人井伊直政であった。
直政は佐和山城を廃し,湖岸に広大な水城とも言うべき大掛かりな築城を行う。
これが現存する彦根城である。
その子孫に,大老井伊直弼が居たのは周知の通りだ。


そして,いつも湖東平野を南下する際に,信長が築城した安土山と,羽柴秀次が築城した近江八幡城を探すのだが,今回は携帯の地図を開きながら,何とか見当を付けた。
そして,俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)による百足退治の伝説で知られる近江富士三上山が,すり鉢を伏せたような形で現れ,野洲川を渡って旧東海道(R1)と合流すると,湖南平野となる。
因みに,この秀郷の子孫は,全国各地に広がって繁栄した。
今でも藤の付く苗字の家は,この俵藤太秀郷(藤原秀郷)の子孫と言っても良いと思う。
佐藤(野州佐野の藤原),加藤(加賀の藤原),近藤(近江),遠藤(遠江),斎藤(太政官制の斎宮頭から。厳密には秀郷室の祖父,鎮守府将軍利仁-芥川龍之介の「芋がゆ」に登場-の子孫と言うべきか。加藤氏も同様)・・・といった具合である。
また,近江出身の氏族として最も有名なのは,何と言っても宇多源氏(近江源氏,佐々木源氏とも)の佐々木氏の一族だろう。
それについては,昨年述べたので,それを引用したい。


宇多天皇の末裔が,佐々木氏を名乗り,鎌倉期以降は,各地に広がった。
元々は,南近江の蒲生郡の出自らしいが,何と言っても,保元平治の乱を戦い抜いた佐々木源三秀義の功が大きいと思う。
宇治川の先陣争いをした佐々木四郎高綱の父と言えば,ああそうか・・・という方もおられよう・・・。
この秀義,平治の乱の後,どうやら東国に逃れ,舅である相模の渋谷重国の元に在ったらしい。
頼朝の挙兵に際し,太郎定綱,次郎広高,三郎盛綱,四郎高綱の四兄弟を遣わしており,自身は,平氏方の大庭景親(保元平治の戦いでは,義朝に付いた)に義理立てした舅の手前,五男の義清とともに相模に留まり,後に改めて頼朝に臣従した。
源平の戦いに功があった四兄弟は,それぞれ官位を得たが,承久の乱においては,京に近いことからか,後鳥羽上皇方に一族の多くが荷担し,それによって各地の守護職を失い,近江の宗家が残ることとなる。
秀義-定綱-信綱と続くわけだが,信綱の子である泰綱と氏信がそれぞれ六角氏と京極氏を興すことになる。
六角氏は,京の六角堂から発祥だろうし,京極氏の発祥については,以前述べた。
京の極み-即ち,京洛の外れ・・・といった意味であろう。
この系統からは,多分男として最高の人生を送ったと思われる佐々木(京極)高氏(導誉)が出た。
そして,箱根竹ノ下の戦いで,足利方に寝返った導誉は,幕府の要職を務め,京極氏は繁栄する。
また,秀義五男の義清は,承久の乱の功によって,出雲・隠岐の守護となり,子孫は同地に栄えた。
後世の長州藩士前原一誠(萩の乱の首謀者)や乃木希典は,その子孫と言われる。
松江市内に乃木駅があるが,多分このあたりが発祥の地なのだろう・・・。
ついでに述べれば,後に山陰の覇者となる尼子氏も近江源氏であり,黒田氏もそうではないかと言われた・・・。


・・・ということで,余計なことを考えているうちに,あっという間に大津市内が見え,一瞬琵琶湖が見えたと思ったら,あっという間に瀬田川を渡り,音羽山の真下をくぐって京の東の玄関とも言うべき山科盆地へと滑り込む。
一瞬ではあるが,湖都大津を遠望する瀬田付近のループは,割と味気ない新幹線の車窓でも白眉であると思う。
謎に包まれた近江京(大津京)以来,幾度となく血生臭い歴史の渦に苛まれた大津の街であるが,湖を控えたその風光は底抜けに明るい。
それが故に,こうして近江路に惹かれる訳だし,旅情を感じることにもなるのだが・・・。
そして,東海道線が眼下に見えた・・・と思った直後に鴨川を渡る。
1年ぶりの上洛は,こうして成った・・・。



今日も画像無しで終了・・・というかやはり大暴走。
もう止まりません。
明日は南都に辿り着けるでしょうか・・・。





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