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關西紀行-其之壱拾弐「高松塚,橘寺,石舞台 」

 自転車を4台連ねて颯爽と発進・・・の筈が,10数年ぶりで乗ったという相方と,なかなか慣れない下の子がハンデとなり,緩いスピードでの走行を余儀なくされる。
取り敢えず地図を見ながら高松塚古墳を目指す。
昭和47(1972)年に大規模な壁画が見つかったところであり,20年以上前に高松塚壁画館
へは一度行った。
高松塚古墳も壁画館も飛鳥歴史公園の中にあり,自転車道が整備されていて,直接行くことができる。
残念ながら壁画館は休みだったが,埋め戻された高松塚古墳の墳丘は,眼前で見ることができ,二段式の円墳であることも確認できた。
発掘されて埋め戻された壁画(国宝)に描かれた人物の服装(切手にあった)からも,7~8世紀という古墳時代最末期のものであることが伺えるが,3~4世紀頃の巨大古墳に比して小規模なのは,実用性・実利性の問題なのだろう。
大規模な土木灌漑事業は,古代律令国家にとっては大きなリスクであり,民衆にとってはさらに大変であったことだろう・・・。


公園の出口へ戻り,今度は伝蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳を目指す。
途中,天武・持統陵をかすめるように走る。
ずっと後世の話だが,米沢の町割りをした上杉家の家老,直江山城守兼続の墓が,奥方と一緒の所謂比翼塚であり,生前の仲睦まじさが伺えるのだが,この天武・持統両帝の墳墓も同様なのだろうか・・・。
苦楽を共にして,手を携えて政権を握った夫婦に相応しいのかもしれない・・・。


文字通り亀の形をした亀石(この後,酒船石,鬼の雪隠・鬼の俎板,猿石といった石を見ることになるが,どれもどうしてこういう形なのか正確なことは不明)の前で,相方と下の子を待つ。
隣に無人販売所があり,地場産品をいろいろと売っていた。
旅行中でなければ買ったのだが・・・。
丁度正午を回った時間帯だったと思うが,自転車を漕いだことと折からの好天で,大汗をかくほど暑い。
半袖Tシャツの上に長袖Tシャツを着て,その上にフリースを着て,さらにはライトダウンで完全防寒装備で望んだのだが,関西は暖かい。
フリースを脱いでリュックに詰めたが,全く寒くなく,結局丸1日3枚着ただけで過ごすことになった・・・。


石舞台へ向かい途中,聖徳太子生誕の地という橘寺に寄る。
小高い丘の中腹に建てられた寺は,ロケーションの良さと好天もあって至極魅力的に見えたが,先を急ぐことと拝観が有料ということもあって,門前をスルーパスする。
橘というと,第30代敏達天皇を祖とする橘氏が有名であり,奈良時代は一時藤原氏をしのぐ精力を誇ったのであるが,この橘寺とどのような関係があるのか,浅学ながら不明である。
藤原氏の発祥地が謎に包まれた藤原京(大和三山のトライアングル中央)だとすると(初代鎌足は,大和政権下で神事を司る中臣氏を名乗っていたが),橘氏の発祥はこの辺りなのだろうか・・・。
眼下には川原寺跡が広がっており,興趣をそそられたが,とにかく一路石舞台を目指した。飛鳥川に沿った緩い登りの道は,変速器無しのママチャリではしんどかったが,何とか登り切って後続を待ち,20年ぶりの石舞台古墳を見学した(記憶は全くなし)。
この巨石を積み上げた古代人の技術力の凄さは,想像するしかないのであるが,元々は盛り土されたものが流れて,石室が露出したと思われる。
地下の石室まで降りてみたが,とにかく天井が高かった。
葬られたのが蘇我馬子という説が有力なのは,「日本書紀」に626年(まだ年号は無い),
大臣が薨去したという記述があるからだそうで,この年に亡くなった大臣とは馬子のことを示しているという。
馬子と共に国家事業を進めた聖徳太子は,確かその4年前に亡くなっているので,馬子は長命だったのだろう・・・。
一説には,聖徳太子は馬子に謀殺された・・・などと言われたのを聞いたことがあるが,聖徳太子自身が蘇我氏と極めて密接な関係にあり,仏教政策を推進するに当たって,物部氏を滅ぼした訳であるから,蘇我氏にとって大切な旗印であったに違いない。
もし即位すれば,馬子は天皇の外祖父になる可能性もあったわけだし・・・。
聖徳太子没後,すぐに蘇我氏の先制時代が訪れたように思われがちだが,馬子の後を継いだ蝦夷・入鹿父子が,太子の皇子である山背大兄皇子を滅ぼしたのは643年,つまり大化の改新の僅か2年前となる。
つまり蘇我氏の完全な天下は2年足らずということにもなる。
山背大兄皇子の母は,馬子の子である刀自古郎女(とじこのいらつめ)と想像されるので,蘇我蝦夷とは従兄弟ということになる。
蝦夷は,推古帝崩御後の皇位について山背大兄皇子には自重するように働きかけた結果,敏達天皇の孫である田村皇子が舒明天皇となった経緯があり,関係が悪化したのは入鹿の代になってからと思われる。
一説には,入鹿が山背大兄皇子を討ったことで,父である蝦夷は激怒したともいう・・・。そして,蘇我氏の邸宅は,飛鳥を一望する甘樫の丘にあったとされるが,この舒明天皇の時代(930年)には第一回の遣唐使が送られているのである。
23年前に遣隋使であった小野妹子とはえらく扱いが違うが,犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)なる人物がそれであり,最後の遣隋使も務めた(これらのことは高校3年の時,日本史の教科書で知った)。
・・・と思いつくままに書いたが,蘇我氏という氏族のことをちょっと考えただけで,いろいろと興味が湧いてくる。
極悪人のように言われる蘇我蝦夷・入鹿父子であるが,本当にそうだったのかどうかは問題ではないだろう。
歴史上には,善悪だけでは判断できないことが多いのだから・・・。


・・・ということで,古代史は全くの範疇外ながらワープロ2ページを書き殴りました・・・。
明日は書けるのでしょうか・・・。

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