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關西紀行-其之壱拾参「乙巳の変 」

石舞台を後に,元来た道を下る。
次なる目的地は,大化の改新の舞台とも言われる飛鳥板葺宮跡であるが,心を残してきた川原寺跡にどうしても行きたくて,橘寺の下まで戻る。
7世紀当時は飛鳥寺(法興寺),薬師寺,大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院だが,平安時代最末期というか鎌倉開府の前年である1191(建久2)年の失火によって消失。
以後衰退という経緯をたどった。
その遺構は,往年の大寺の面影を宿すに十分であり,今を去る1400年近い昔に,大寺院が営まれたことを雄弁に物語っていた。
中金堂跡付近に建つ弘福寺は,川原寺の法灯を継ぐ寺院であり,重要文化財に指定された仏像も有るらしい・・・。


川原寺から明日香村役場の前を通り,飛鳥郵便局の角を北に回ると,伝飛鳥板葺宮跡はすぐだった。
・・・というか,遺構は二カ所に分けられており,地図ではより規模の大きい北の方が,飛鳥浄御原宮跡とあった。
これは間違いではと思ったが,近年の発掘調査により,板葺宮の後に浄御原宮を造営したのでは・・・ということらしい。
ではその前にあったと思われる飛鳥岡本宮もその付近にあったらしい(明日香村岡)。
これらを総称して飛鳥宮と言うことになるようだが,改新以降の時代,天皇が代わる度に遷都が行われるような時代だったので,いろいろと近場ながら替わったのだろう。
いずれにしても,飛鳥は当時の朝廷の中心であったわけであるが,天智帝が遠く離れた近江京(大津市)を造営した理由は何だったのだろう・・・。
明日香の地に渦巻く諸豪族たちの謀略や権勢を断ち切るためと考えるのが最有力であろうが,数年で灰燼と帰した大津京(近江京,滋賀京)の造営は並大抵のことではなかったと思われる。
人身の収攬を考えた天武帝は,兄である天智帝と同じ轍は踏まない・・・という思いから,父祖の地とも言うべき飛鳥を拠点にしたと思われる。
そして持統天皇の時代には,広大な藤原京が明日香宮北に営まれる。
大和三山の中央部に位置することから,大和三山のピラミッドパワーだの,UFOが発着しただのと聞いた記憶がある。
いずれにしても,それぞれの飛鳥宮は,藤原京への移行期の所産であり,規模的にも大きくないのが特徴とも言えるようだ。
但し,ここで所謂乙巳の変(いっしのへん)があり,皇極天皇(女帝。天智帝母。重祚して斉明帝)の眼前にて,大臣蘇我入鹿が誅された・・・と思うと,ある種の感慨があった・・・。
しかも,三韓(馬韓,弁韓,辰韓というより百済,新羅,高句麗というべきか)の朝貢の使者を迎える儀式の最中であったというから,当事者である中大兄皇子と中臣鎌子(後の鎌足)以外の者は,仰天したことだろう・・・(あと1人,蘇我氏の長老であり,中大兄の舅でもあった蘇我倉山田石川麻呂は知っていたか・・・)。
蘇我氏の専制を快く思わなかった中臣鎌子は,最初は軽皇子(中大兄叔父。皇極帝弟。後の孝徳帝)を担ごうとしていたが,器量に物足りなさを感じて中大兄に近付き,元興寺(飛鳥寺)打毬に於いて,中大兄の脱げた皮鞋を鎌子が拾ったことによりこの2人が知り合ったという話が伝わる。
クーデター決行の当日,645年6月12日,中大兄は長槍を,鎌子は弓矢を携えて宮中に潜み,上記蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読んでいる最中に中大兄の命を受けた佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が斬り込んで入鹿を討つという手筈だったらしい。
ところが,この2人が緊張の余り食事ものどを通らぬ有様だったらしく(丸呑みしたとの記述もある),また大臣入鹿の威に圧されたのか,なかなか踏み込めなかったという。
上表文を読む石川麻呂の声も震え,用心深い入鹿は不審に思って問い糺したと言われるが,天皇の御前故に緊張して・・・と苦し紛れに言い訳したともされる。
業を煮やした中大兄は,自ら飛び出すとようやく子麻呂と稚犬養網田も躍り込んで,入鹿に斬りつけた。
入鹿は,自分に何の咎が・・・と,天皇に訴えたというが,中大兄の天皇を蔑ろにして専横を恣にし,皇位を狙った・・という言葉に,皇極帝は奥へ去り,入鹿は子麻呂と稚犬養網田によって惨殺された・・・。
翌13日,中大兄は兵を進め,入鹿の父蝦夷の館を包囲。
蝦夷は自害して果て,蘇我氏の本流は滅亡する。
翌14日,皇極帝は退位して,弟の軽皇子に帝位を譲る(孝徳天皇)。
中大兄は皇太子となり,阿倍内麻呂が左大臣,石川麻呂が右大臣,鎌子が内臣となり,新しい政権が発足した。
この乙巳の変に始まる3日間の一連の出来事を総称して,大化の改新と呼ぶことになるのは,ずっと後世のことだろう・・・。
そして,それによって聖徳太子が掲げた仏法を根幹とする中央集権的律令国家へと近付いた・・・と,受験日本史では理解してきたのだが,果たして蘇我氏の専制が単なる独裁政権だったのかは甚だ疑問である。
昨日述べたように,聖徳太子と蘇我馬子没後の630年には第1回の遣唐使が派遣されており,唐の文物が多く入ってきたのもこの時代であった。
中大兄と鎌子が私淑したという南淵請安は,第1回遣隋使として隋に渡り,隋から唐への政権交代(というより中国王朝の場合は,完全に民族対立と殲滅だが)をつぶさに見て帰国している。
中大兄と鎌子の国家構想には,間違い無く大陸の律令制国家の理念が生かされていたことと想像するには難くない。
そしてそれらの知識や思潮は,皮肉なことに蘇我氏が推し進めた施策の産物であった訳である・・・。


・・・ということで,今日もワープロ2ページです。
大暴走ではありますが,所謂大化の改新に対する私考を書かせていただきました。
勿論,旅行ガイドにはなりませんし,史論にも到底なっていませんね・・・。
明日は書けるかどうか・・・。
・・・というか,この日飛鳥で見聞したことは,あまりにも多岐に亘っています・・・。
果たして書ききることができるかどうか・・・。

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