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關西紀行-其之壱拾伍「飛鳥寺・・・ 」

次なる目的地は,飛鳥寺。
蘇我氏の氏寺にして,我が国最古の寺院である。
正式には方興寺と言い,斑鳩寺と呼ばれた法隆寺に対して飛鳥寺と呼ばれた・・・と,これも高校の教科書に書いてあった受験知識である。
また,元興寺とも呼ばれ,平城遷都の際に建材は奈良に運ばれそのまま使用された。
その元興寺を5年前に訪れたが,千体仏のような石仏がずらりと並ぶ様は一種独特の雰囲気を醸し出しており,本堂の造りもかなりの年代を感じさせるものであった。


小ぶりだが,なかなかの味わいのある山門を入ると,放生があり鐘楼,思惟殿,そして飛鳥大仏を納める本堂がある。
何でも604年から翌年にかけて,渡来人である鞍作止利(くらつくりのとり-止利仏師)の作だそうで,これは607年創建の法隆寺よりも早い。
法隆寺の創建と遣隋使の派遣が同じく607年と記憶しているから,正規の遣隋使派遣以前から大陸との交流があったということになる。
尤も,神功皇后の三韓支配やそれこそ卑弥呼の邪馬台国の記載された「魏志倭人伝」,「漢書地理誌」,「後漢書東夷伝」,「宋書倭国伝」といった中国の書物に,「其楽浪海中に倭人あり」とか記されていたので,大和朝廷以前から大陸との交流があったことは事実だろうから,一向に不思議ではないが・・・。
それにしても,受験の知識など,終わってしまえば全く役に立たないと思ってきたが,少なくても私にとっては,こうした寺社史跡巡りの際に時折役に立っている。
ま,その他の知識が役に立っているとは思われないのであるが,やはり高校の日本史は必修であるべきと思う。
観心寺如意輪観音像(受験勉強の3~4年後に行った時,何も考えなかったのが惜しいというか,残念で成らないのだが・・・)とか中宮寺菩薩半跏思惟像といった仏像を丸暗記したのもそうだし,京都五山だの鎌倉五山といった寺も丸暗記した(仙台北山五山は後で知った)。
上述の古代中国王朝の史書の名と,倭国や倭人が載っている文書の丸暗記も同様。
神仏習合の神宮寺が平安初期に生まれ,明治初期の廃仏毀釈によって完全な神仏分離が成されたことや,再び仏像のことでは寄せ木造りだの一木造りだのを覚えたのも受験の知識である。
受験体制を認めたり擁護したりするつもりは毛頭も無いが,少なくても自分の好きな教科に限っては,詰め込んだ知識がこのように何らかの形で役に立つこともあるのである。


飛鳥寺の境内を西へ抜ける。
安居院という別号が西門の柱に有ったが,安居というと大阪の天王寺にある安居神社が思い出される。
天王寺動物園の北で,四天王寺の西,松井町筋からマンションと3階建ての雑居ビルの間に鳥居があり,そこを東に入ると木立の中が境内となるようだが(地図とストリートビューで見ただけで行ったことはない・・・泣),大坂夏の陣における真田幸村の終焉の地である。
越前藩士西尾仁左衛門に討たれたとなっているが,真相は分からない。
西尾はその日の最高殊勲を挙げた訳だが,家康に聞かれた際に,さすが真田は 名うての剛の者で,何度も槍を合わせた後,ようやく討ち取ったと報告したそうだが,家康はそれが粉飾であることを見抜き,朝から数度に亘って突撃を繰り返した真田に槍を合わせる力は残っていなかった筈・・・と言ったという・・・。
真田幸村には7人だかの影武者がおり(忍者,所謂真田草の者だろう),茶臼山の家康本陣に突入した際,変幻自在の動きを見せたというし,紀州の浅野(豊臣家恩顧の大名の1つ)が裏切ったという流言も流して,家康本陣を大混乱に陥らせたという。
また,大坂城には真田の抜け穴が残っており(途中で塞がっているいるらしいが),それを使って秀頼を燃え落ちる大坂城から脱出させ,自身もそのまま鹿児島へ行った・・・という噂がまことしやかに流れたともいう・・・。
研究者や学者はいざ知らず,私のような素人にとっての歴史というものは,真偽云々は二の次三の次であり,浪漫をかき立てるものでなくてはならないのである。
故に,邪馬台国が九州であろうと畿内であろうと,真偽は問題にならない。
このことは,学生時代に教員志望の友人と議論を交わして物別れに終わったのであるが,今でも持論は変わらない。
嘘か本当か・・・と思って史跡を見ても味気ないことこの上ないのではないだろうか・・・。
もしかすると,ここにあの人物が・・・と思うからこそわくわくするのであり,学説の真偽や難しい論争は,学者や大学の先生方に任せておいて,せいぜい学問の厳しさとかやってもらうことにして,私のような素人は,素人なりの目線で歴史を楽しむようにしたいものだ・・・。
真贋のみで歴史を見てしまうのならば,歴史小説なんて意味のないものとなってしまうのだし・・・。


・・・と,又しても余計なことで行を費やした。
唯,そうした視点で見ないと,この飛鳥寺の西裏に静かにただずむ蘇我入鹿の首塚など,何の意味もないものとなってしまうのではないだろうか・・・。
飛鳥板葺宮で惨殺された入鹿の首が,ここまで飛んできて力尽きたという。
鎌倉期に建てられたと思われる五輪の塔がそれであり,蘇我氏の居館があったとされる甘樫の丘を背景に,西に傾きつつある日射しの中,静かに私の前に姿を現した。
表示が無ければ見落としてしまいそうな場所でもある。
その前は西門跡の遺跡で,当時周囲一体の大寺であったことが伺われる。
そう言えば,江戸初期に住吉如慶・具慶父子によって描かれたという談山神社所蔵「多武峰縁起絵巻」では,確かに入鹿の首が飛んでいる。
唯,どう見ても平安時代の装束で描かれているので,考証的には??であるが(皇極女帝が十二単で,男は衣冠束帯)・・・。
稲目-馬子-蝦夷-入鹿と続いた蘇我氏であるが,これらの諱(いみな)はどうも蘇我氏を朝敵とされた貶めるために,後世(というか7世紀後半)に付けられた名ではないかと思われる。
蝦夷なんて,知っての通り我々東北人の先祖に対して,中央政権が勝手に北方の蛮族という意味で付けた名前のことである(同様に,南方の蛮族を熊襲と隼人と呼んだ)。
真贋で歴史を語ることもだが,それ以上に単純極まりない善悪二局で歴史を論じることこそナンセンスであろう。
蘇我氏一族は代々開明的な私考を持っており,大陸の文物や仏教の受容に対しても積極的であったと思われる。
先述の通り,蘇我蝦夷の時代には第一回遣唐使の派遣も為されており,やがて来るべき中央集権的律令国家の樹立に一役も二役も買ったと想像される。
故に,単純極まりない善悪二極で歴史をカテゴライズしてしまうと,完全に偏った視点しか持てなくなる危険性があると思う。
政権交代期に折れる権力抗争は歴史の常であるから,双方の立場に立った柔軟な見方を身に付けるべきであろう・・・。


・・・ということで,今日は2ページ半ほど書き殴ってしまいました。
飛鳥寺も,飛鳥の歴史散歩に於いては必見・必須であると断言しましょう・・・。
明日は書けるかな・・・??

http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/3731fa3f05df2b4d0f3b0f3940fd50e9





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