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關西紀行-其之壱拾六「甘樫之丘・・・」

感慨深かった飛鳥寺を後にする。
飛鳥寺の真西に位置する甘樫の丘へ行きたかったし,飛鳥資料館にも行きたかったのだが,年末年始は飛鳥資料館が休業中という懸念があったし,だいぶ日が西に傾いてきたので,飛鳥坐神社の前を藤原鎌足誕生の地とやらへ行こうとしたが,大型車両が道を塞いでいたので断念。
せっかくなので,甘樫の丘へ登る前に,水落遺跡なるものを見に行くことにした。
水落というから,今度こそ灌漑用の施設と思ったが,何と中大兄皇子が皇太子時代に考案したという漏刻の跡であった。
3年前に近江神宮を訪れているので,私としてはてっきり近江京に設けられたと思っていたし,確か天智帝最末期の671年に設置したと記憶していたのだが,それは覆されたということだろうか・・・。
発見されたのは,私が生まれてからということで,つい最近のことなので,今後また新たな事実が解明されることがあるやも知れない・・・。


そこから県道241号線に沿って走って,飛鳥川を渡ると甘樫の丘の駐車場に着いた。
20年前も多分ここから登ったと思われたが,全く記憶が無かったので,別の登り口から入ったのかも知れない。
それにしても記憶が無いというのは,一体何だったのだろう・・・。
自転車を駐輪スペースに置き,整備された道を登る。
さすがに終日自転車を漕いでいたので,疲労が下半身に来ており,しんどかったが何とか登った。
途中,志貴皇子の歌碑が有ったので,これ幸いと足を止めた。
天智帝の第七皇子だったので,皇位継承には全く無縁で和歌をよく詠み,万葉集にも秀歌を残した人物だが,この甘樫の丘への道にあった古歌は,飛鳥から北方の藤原京への遷都に際して,惜別の情を詠んだものだったが,私としてはやはり中学生の時に国語の時間で習った以下の歌がお気に入りだ。

「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」

水の音と苔蒸す岩,その上に生える早蕨・・・。
鮮やかな幾種類もの緑と澄んだ水の色・・・。
見事な色彩感を詠い上げることで,春の訪れを賛美するという爽やかな臭いまで感じられる万葉集ならではの秀歌である・・・。


どうやら今回登ったのは,北側の展望台だったようで,大和三山を実によく望むことができた。
近年の調査で,この甘樫の丘には蘇我氏の屋敷があったという。
以前,このことに関して8年前に雑文を書いたことがあったが,今こうして改めて現地に立ってみると,感慨が違う・・・。
「日本書紀」によると,蘇我蝦夷がここに屋敷を構えたのが644年のことという。
前年に山背大兄皇子一族を滅ぼしているので,蘇我氏としては我が世の春を言祝いだのかもしれないが,それも1年と続かなかったということだろうか・・・。


改めて北を見ると,大和三山がはっきり見えた。
特に一番遠い北側の耳成山が形も良く,くっきり見えた。
北西には,麓に神武天皇と懿徳天皇の御陵のある畝傍山がマンション街の向こうに霞んで見えた。
そして,北東は持統天皇の歌でも知られる天香具山である。
その三山を結ぶ中央に藤原京があり,7世紀末から8世紀序盤にかけて殷賑を極めた。
そう考えると,1300年もの歴史があっという間の出来事のように思われてならない。


東側を眺めると,飛鳥寺がはっきり見えた。
そして蘇我入鹿の首塚も視認された。
入鹿もこの丘の頂に立ち,余りにも短かった我が世の春を謳歌したのであろうか・・・。飛鳥の中央部に位置し,ほぼ全容を見下ろすことができるこの地こそ,覇者の住まいに相応しいと考えたのだろう・・・。
古代律令制中央集権国家樹立の過程で滅びていった蘇我氏一族に対して,哀惜の念を禁じ得ない・・・。


今日は,短くここまでにします。
画像が多いので,結構スペースは潰れたと思いますし,甘樫の丘については,かつての拙文のリンクを辿っていただけると有難いです。
さて,飛鳥の見学物件はあと3件。
この時点で時刻は4時まで20分程度。
5時まで自転車を返すために飛鳥駅前に戻らなくてはなりませんので,あと3つを見るというのは結構大変だったりします・・・。


8年前の雑文
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