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日高見紀行-其之弐「石巻市大川・釜谷地区・・・」

今回のエントリの題名である日高見とは,釈日本紀に載っていた古代の日高見国のことだが,日高見=北上という説を唱えたのは,大国語学者の金田一京助だったらしい。
東北大学教授で,豊田武博士と並ぶ古代~中世史の権威だった高橋富雄氏(私の友人の東北大生たちは,考えが古いと批判していたが)も,その説を支持し,日高見川=北上川という説を唱えたようだ。
維新後,北海道に日高支庁や日高山脈が制定されたように,日高見は北の国というイメージが固着したと思われる。


思えば,北上川は多くの歴史抗争を見てきたと言える。
前九年の役での安倍氏と源氏の抗争や,義経関連の平泉を舞台とした政争は,この北上川畔で起きた。
後世になると,芭蕉も河口の町である石巻に泊まり,平泉の義経館跡である高舘に登り,悠然と流れる欧州一の大河を見たのは間違いないだろう。


その北上川が運ぶ土砂によって,沖積平野である広大な仙台平野が形成された訳だが,当然のことながら川は厄災も潤いももたらす。
河口の石巻平野の水害緩和のため,支流の追波川を掘削して,石巻平野北部の山地の北で追波湾に注ぐように工事を行ったのは,明治末期から昭和初期にかけてのことであった。
広大な川幅をもつ旧追波川は,新北上川と命名された。
これによって,北上川の増水は緩和されることになり,河口の町である石巻は,水害から随分と救われることとなったのは,想像に難くない。
そして,開削から80年足らずの将来,この新北上川を何kmも遡上した津波によって,大きな悲劇が起こることなどを予測した者は,誰も居なかったことだろう・・・。


南三陸地方の漁村は,何処も壊滅的な打撃を蒙ったわけだが,その1つである旧雄勝町(現石巻市雄勝町)も例外ではなく,漁港は未だに岸壁のコンクリートが3年前のままで,浜には家もなく,伝統的な工業製品たる雄勝硯も,高台で細々と頑張る職人さんが,伝統を繋ぐに至っている。
その雄勝から,峠のトンネルを2つ越えたところにある集落が,石巻市大川地区である。


悲劇は,平成23年3月11日の15時30分過ぎに起きた。
地震発生の約50分後である。
石巻市立大川小学校のある釜谷地区は,海抜僅か1m。
児童と地域住民が校庭に避難し,数m高い新北上川の堤防の上にある新北上大橋付近に避難を開始した直後に津波が襲来。
児童80数名と,職員10名が命を失った・・・。


私が,被災直後の大川小学校の映像を見たのは,多分震災後2週間程経った時だったと思う。
ネットの映像ニュースで,モダンな鉄筋2階建ての校舎が廃墟と化していたものだったが,リアス式海岸地形の特徴で,裏山は木を伐採した斜面だった。
何故,ここに逃げずに,津波が遡上する鉄橋を目指したのか・・・という疑問が先ず湧いた。
これに関しては,多くの情報が飛び交っているが,どうやら地震発生直後,緊急避難所と鳴っていた大川小学校には,近隣の避難民たちが多くやってきた。
引き渡しやら点呼やら,或いは地域住民を交えての二次避難場所の検討で,30分以上を費やすことになったらしい。
その結果,裏山は倒木があるし,余震も頻発していることから,避難には適さないという判断が為され,校庭より数m高い新北上大橋前(通称三角地帯)へ行くことに決定したという。
この時点で,市の広報車から津波が5mから10mに訂正されたということも伝わったとある。
勿論,現地に伝わっていたかどうかは分からない。
追波湾の河口までは数km。
よもやここまでは・・・という考えがあったのかどうか・・・。
実際に行ってみて分かったのだが,校庭から上記新北上大橋まではすぐ,というか,学校の隣が橋という感じだった。
幾らも避難しないうちに,押し寄せた津波に流されたのだろう。
新北上大橋が津波に飲まれる動画がアップされていたが,橋の袂の「三角地帯」に辿り着いたとしても,助からなかっただろう・・・。


真新しいお地蔵様が立つ献花台が2カ所にあり,線香をあげた後に,裏山への道を辿ってみた。
法面はコンクリートで固められた擁壁となっており,その両脇に辛うじて人間1人が通り抜けられるスペースがあり,その上は木を伐採した跡のある急斜面となっていた。
3時15分頃に強い余震があり,倒木の危険性は確かにあったと思う。
それと同時に,よもやここまで津波は・・・という感覚が果たして有ったのかどうか・・・。


勿論,後で事実を知った私に,その場で判断をした人たちを批判する資格は無い。
かつて,岩手県内陸地震の際,私は野球の試合に行く上の子と相方を,海浜の野球場に送った帰途,地震に遭遇しているが,その時に津波が・・・という感覚は,全く持ち得ていなかった。
震源が内陸だったので,その時に津波は起きなかったが,今回の震災で,その海浜の野球場は,跡形もなく津波に飲まれた。
勿論,偶然であるが,もし,地震の順序が逆だったら,私は確実に家族2人を失っていたのである・・・。


鎮魂と復興への願いを具現化するために出掛けた訳であるが,敢えてこうした何とも言えない思いをすることで,少しでも震災への理解が深まり,香華を手向けることと,僅かながら現地で散財することで,被災地の方々のためになれば・・・と思う。
そして,今回は時間の都合で行くことが叶わなかった南三陸町志津川地区へ行きたいと思う。
香華を手向け,僅かながら地場で散財してきたい・・・。
それが殆ど被災していないに等しい我々の出来ることと思う故に・・・。

画像を本家に掲載しました。
    ↓
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/f1c5d59f5bbb377e3b03d0f0370ee6b1

大川の悲劇と共に,川向かいの吉浜小学校でも児童が犠牲となり,校舎は跡形もありませんでした・・・。

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2014/05/11 17:46
meianさん,今晩は。
河口から現地までは3km以上。
よもや10mを軽く越える津波が,ここまで来る筈ない・・・という考え方が,果たして有ったのかどうか・・・。
大量の地元避難民の流入も有って,おそらく学校側だけに選択を迫られたのではなく,多くの意見を取り入れての総合的判断であったと推測されます。
ですから,それ批判するのは仰るとおり酷というものですね。
実際に,それらの方々は皆亡くなっている訳ですし・・・。
只,避難に関するマニュアルを整備していなかったというところで,突っつかれることになっているようです。
いずれにしても,尊い犠牲者は帰ってきません。
冥福を祈るしかないのが,何とも悲しいです・・・。
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2014/04/15 10:32
おはようございます。
過去に経験したことが無い地震の恐ろしさが津波への警戒心よりも
余震による倒木の危険性などを避けるほうを選択させたのかも・・・。
それが人間の思考力の限界だとすれば、批判するのは酷と言うもの・・・。
しかし、緊急時の正確な情報伝達方法の確立も重要ですね。
改めて、犠牲者のご冥福をお祈りします。合掌。




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