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加越紀行-其之三:2人の天下人の名を持つ男・・・

福井駅前迄従兄弟に送ってもらい,丁度良しとばかりに,福井城趾(現福井県庁)へ向かう。半年前は,かすっただけで見られなかった場所なので(何せお堀のすぐ南に宿を取っていた故),1人という絶好のフットワークを生かして,開花直前の桜並木の中を登城する。
立派な石垣だ。
さすが御親藩,越前32万石の城である。
城跡が県庁というのは,福島市と同様だが,城の規模は比べものにならない。
しかし,明治政府も廃城にしたのは良いが,後世において,観光物件や史跡として城が活用されるなどとは全く思わなかったのだろう。
お堀の彼方向こうに,白銀に輝く山容を見せているのは,名峰白山だ。


廓に入ると,白い騎馬像が目に入る。
越前藩祖であり,家康の二男である結城秀康公(1574-1607)だ。
家康二男ということは,家康の正室築山殿と共に武田勝頼への内通を疑われて自害した長子信康(信長と家康から一字を拝命)の次の正嫡ということになるのだが,どうも家康はこの二男を嫌ったらしい。
勿論正室の子でないということで家督の権利はなかったと思われるが,どうやらその出生に原因があったとされる。
母である於万の方(長勝院)は,浜松城下の神職の娘で,上記築山殿の奥女中として奉公している際に,家康のお手がついたという。
一説には,双子だったとも(今一人の兄弟は,永見貞愛という),生まれたときの容貌がギギなる魚に似ていたので,於義丸とか義伊丸という幼名だったとも言われる。
当時,双子は畜生ハラと言われて,忌み嫌われていたらしい。
山岡荘八の「徳川家康」では,築山殿が怒って於万の方を竹で滅多打ちにして,それを救った本多作左衛門重次によって匿われたと記憶している。
ようやく父との対面がかなったのは3歳の時で,不憫に思った兄信康の計らいだったという。
この秀康,どうやら相当な武将だったらしい。
初陣は小牧長久手の戦いらしいが,その後秀吉の人質として出される。
秀吉は,10歳を越えたばかりのこの少年の資質を見抜き,養子とした。
秀康という諱は,秀吉と家康という2人の天下人の名を一字ずつ拝命したものであり,何とも豪華な名乗りである。
その後,九州征伐や朝鮮出兵で手柄を立てるが,秀吉に実子が生まれたことにより,小早川秀秋や宇喜多秀家等の他の養子と共に,相続権を失う。
そして,北関東の名族結城氏の名跡を継ぐことになるのである。
結城氏は,発祥を平安時代まで遡る藤姓の名家で,鎌倉幕府草創期に頼朝に従って功があり,下野の名族として(発祥の地は下総結城だが),南北長期は南朝方(結城宗広が有名)で戦い,その後は世に言う結城合戦で衰退した。
その名跡を継いだ後,石田三成が失脚して居城である佐和山城へ蟄居した際に(翌年挙兵して,関ヶ原の役が起きる),その身柄を送り届ける任に就く。
三成は,この若者の爽やかな人柄と資質を認め,佩刀を授けたという(石田正宗)。
翌年の上杉征伐に従軍中に三成が挙兵した訳だが,その際父に従っての西上は認められず,対上杉の備えとして,北関東に留め置かれ,その任を全うした。
関ヶ原後,その功により越前北の庄67万石の大大名となる。
これは,親藩大名としては,破格の待遇だった。
戦後は,城下町の整備に当たったり,伏見城代を務めたりしたのだが,父母に先立って慶長12(1607)年に卒する。
享年34。
死因は,唐瘡(梅毒)だったともいう。
後嗣は,長男の忠直だが,大坂の役で奮戦するも認められず,次第に行状がおかしくなり,将軍秀忠の命で蟄居。
越前藩は,弟の忠昌が継ぐこととなった・・・。


・・・という経緯で,越前藩の成立となったのだが,藩祖として,郷土の英雄として,今尚福井市民に愛されているというのは,全くをもって慶賀に堪えない。
因みに,私は,柴田勝家が築城したとされる北の庄城が福井城となったと長いこと思ってきたが,別の場所に有ることを前々回の初の福井行きで知った。
そして,せっかくなので,今回はそちらも訪れてみようと思い立ったのである・・・。

           (多分,続きます・・・)

例によって,少しばかり画像を本家に掲載しました。
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