Nicotto Town


koshiのお部屋分家


加越紀行-其之四「鬼柴田・・・」

北の庄城趾は,福井城趾の300m程南に位置する。
いずれも,駅から至近なので,歩いて行くにはもってこいの場所だ。
但し,どうやら北の庄城趾をこの位置とすることは,未だ未確定というか,学術的に認められている訳ではないようだ。
というのは,元々有った柴田神社を北の庄城趾としたので,もしかすると現在の福井城趾が北の庄城趾である可能性もあるらしい。
但し,それは私のような素人にとってはどうでも良い話であり,要は史跡を通して,どれぐらい過去に感情移入が可能か・・・という方が問題だと思う。


「日本史」を著した16世紀ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスによると,城郭も城下の町も,大層立派なものであったとある。
フロイスが訪れたのは,本能寺の変の前年である天正9(1581)年であるから,柴田勝家時代であり,さらには後に秀吉が小早川孝景に当てた書状には,九層の天守という文言があったという。
安土城を見ている勝家であるから,壮麗な天守閣を建てたとしても,一向に不思議ではあるまい。
周知の通り,北の庄城は,賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家が天守に火を放ち,後妻の於市の方と共に自害して果てたので,往時を偲ぶものは皆無であるが,20年程前の発掘調査で,石垣の一部と思われる遺構が見つかったらしい。
柴田神社は,近代的で立派な建物だったが,隣に九層の天守閣の模型があった。
そして,「お市の泉」なる井戸と共に,真新しいお市の方の像と浅井三姉妹の像もあった。
私が夏に視聴を断念した大河ドラマの時期に立ったのは見え見えである・・・。
それに対して,かなり以前から有った勝家像は,剛毅な表情が織田軍団随一の戦闘能力を持つ男の面影をよく伝えている・・・。


全盛期-つまり天正10年当時の織田軍団には,方面別司令官が5人居たと思われる。

北陸方面:対上杉景勝-柴田修理亮勝家(与力:前田利家,佐々成政,不破光治,金森長近)
山陽方面:対毛利輝元-羽柴筑前守秀吉(与力:黒田孝高,山内一豊)
山陰方面:対毛利輝元・波多野義治-明智日向守光秀(与力:長岡藤孝,筒井順慶)
関東方面:対北条氏政・上杉景勝-滝川左近将監一益(与力:河尻秀隆,森長可,毛利長秀)
四国方面:対長曽我部元親-丹羽五郎左衛門尉長秀(与力:三好康長,蜂屋頼隆)

であるが,勝家はまさに織田軍団筆頭の将であり,難敵上杉要員として北陸方面を一手に担当していたことからも,信長の信任の厚さが伺えるというものだ・・・。
勝家もよく応え,一世紀近くにわたって,一向一揆の国人たちが蟠踞した加賀を平定したり,上杉謙信死後は能登も攻略。
並々ならぬ能力を持っていたことは,疑いない。
鬼柴田の異名を取る程の豪傑であり,過去に演じた俳優は,宍戸錠とか勝野洋,松平健,大地康夫,近藤芳正等,ごつい人たちが多いが,三谷幸喜の「清洲会議」では,役所広司だそうだ・・・。


鬼柴田,瓶割り柴田,権六に敬意を表して,柴田神社に詣でて,北の庄城趾を後にする。城跡北から福井城までの通りは,「歴史の道」と呼ばれているらしい。
福井鉄道の駅前までの元町商店街にはアーケードが掛かり,天井からは越前所縁の武将たちの垂れ幕が掲げられていた。
勿論,筆頭は柴田勝家と結城秀康だが,新田義貞と朝倉義景が一緒というのも,何だかなぁ・・・という気がした・・・。


15時47分,特急料金を奮発して,特急サンダーバード(683系4000番台)に乗車。
越前に別れを告げ,加賀へ向かう。
4時間に満たぬ滞在時間であったが,今回の滞在は身が詰まっていた・・・。
 
 
                
    画像は,本家です・・・  
     ↓
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/18bdbee2182845297feaa8a544fe0d1c





Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.